決死の防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 17:50 UTC 版)
建安9年(204年)2月、袁尚が鄴の守備に審配と蘇由を残し、平原の袁譚を攻撃に向かった。曹操がこの隙をついて鄴を攻略しようとし、鄴から五十里の地点である洹水に着陣すると、蘇由は袁尚に叛いて曹操に内応しようとした。しかし審配は事前に計画を察知し、城内で蘇由と戦闘になった。蘇由は敗れて城から逃走し、そのまま曹操に降伏した。 曹操はそのまま進軍して鄴を包囲すると、城攻めを開始した。まず曹操が地下道を掘り進んでの攻撃を試みたが、審配は城内で塹壕を掘ってそれに対処した。審配配下の将である馮礼が裏切り、突門を開いて曹操軍三百人を引き入れたが、審配はそれを察知していたため、敵をおびき寄せてから城郭の上より大きな石を落とし、門を閉ざして侵入者をみな殺しにした。 同年4月、鄴が容易に落ちないと判断した曹操は作戦を変え、鄴までの糧道を繋いでいた毛城を攻略し、兵糧攻めを図った。 翌月、曹操が土山・地道を破棄して包囲陣を完成させ、周囲四十里にわたって塹壕を掘ったが、わざと飛び越えられるほど浅く掘ったため、審配はそれを妨害しようとしなかった。すると曹操は、塹壕を一晩のうちに一気に掘り下げ、幅も深さも二丈にし、漳水を引き入れて城を水浸しにした。その後も包囲が続いたため審配は善く防戦したが、兵糧攻めと水攻めにより5月から8月にかけて城内では過半数の者が餓死した。 同年7月、袁尚は平原攻略を諦め、1万の兵を従えて鄴の救援に向かった。鄴から17里の陽平亭に到着すると、狼煙を上げて審配と連絡を取り合った。審配は城の北門より兵を出し、袁尚と呼応して包囲を破ろうとしたが、曹操に抑え込まれて突破することができなかった。その間に袁尚は猛攻撃を受けたため、軍が総崩れとなり中山郡に逃走した。曹操は袁尚軍の武器や食糧をことごとく手に入れ、袁尚が持っていた印綬なども手にいれた。曹操がこれらを城内の兵たちに見せつけると、鄴の士気はさらに低下した。しかしその後も審配は頑強に抵抗を続け、曹操が陣営を出て城の周りを偵察した際には、弩兵に命じ密かに曹操を狙わせた。しかしあと一歩のところで曹操を逃してしまった。 翌8月、東門を守っていた審栄が城門を開いて曹操軍を城内に導いた。審配は激しい市街戦の末、ついに生け捕られた。しかし声音も気力も壮烈であり、少しも弱音を吐く様子を見せなかったため、見る者はみな感嘆したという。 曹操が審配と対面した際に「先日わしが城を包囲した時、何と多くの弩に射かけさせた事か」と威圧すると、審配は「その数が少なかったのが残念だ」と答えた。曹操が、袁氏父子に対する彼の忠節を高く評価して部下に迎えようとしたが、審配は最後まで袁尚への忠義を貫いて拒絶した。また、辛毗が篭城の間に兄の辛評一家を審配に殺害されたと、強く申し出たため、曹操もついに審配を処刑することを決めた。審配は最期に「我が君は北におわすのだ」と言い放ち、主君の袁尚がいる北を向いて斬首された。
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