柳城の攻防とは? わかりやすく解説

柳城の攻防

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)

慕容皝」の記事における「柳城の攻防」の解説

334年1月慕容皝慕容仁味方した諸部族討伐の為、軍事行動起こした。まず司馬封奕白狼派遣して鮮卑族の木堤を攻撃させ、揚威将軍淑虞を平岡山に派遣して烏桓族の悉羅侯を攻撃させ、いずれも攻め降したさらには材官将軍劉佩に乙連に割拠する段部攻撃させたが、返り討ち遭った2月段部大人段遼が軍を派遣して慕容部領土侵攻し徒河攻撃した。これを受け、慕容皝将軍張萌に迎撃命じてこれを返り討ちにした。だが、段遼はこの敗戦怯む事なく、さらに弟の段蘭慕容翰段部亡命していた慕容皝庶兄)を柳城へ侵攻させた。守将である柳城都尉石琮城大慕輿泥は共に柳城固守して決死の防戦繰り広げ段蘭らを退却させた。 10日余りした後、段蘭慕容翰はまたも柳城へ侵攻して城を包囲した段蘭雲梯造って地下道掘り20日渡って四方から昼夜問わず攻撃掛けたが、石琮は城を堅守すると共に、機を見計らって将士率いて出撃し、敵軍攻めて首級千五百挙げた同時期、慕容皝段蘭らが柳城攻め入った知り寧遠将軍慕容汗封奕らに救援命じた出陣前、慕容皝慕容汗へ「賊軍士気高くまともに争うのは得策ではない。万全期し軽々しく進むことのないように。必ず兵が集まり陣が整ってから攻めるようにせよ」と誡めていたが、慕容汗慕容皝戒め無視し、さらに封奕制止聞かずに千騎余り前鋒立てて備えもせずに直進した。そのまま柳城の北にある牛尾谷に入ったが、ここで段蘭軍と遭遇し大敗喫して半数上の兵卒戦死してしまった。ただ、封奕が軍を率いて救援向かい陣形整えて奮戦したので、慕容汗撤退する事が出来た段蘭らもまたそれ以上攻撃継続せず、軍を退却させた。

※この「柳城の攻防」の解説は、「慕容皝」の解説の一部です。
「柳城の攻防」を含む「慕容皝」の記事については、「慕容皝」の概要を参照ください。

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