慕容皝とは? わかりやすく解説

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慕容皝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/23 04:38 UTC 版)

慕容 皝(ぼよう こう、拼音: Mùróng Huàng)は、五胡十六国時代前燕の初代王。は元真[1]小字(幼名)は万年。昌黎郡棘城県(現在の遼寧省錦州市義県の北西)の人。鮮卑慕容部の大人(部族長)で、慕容廆の三男。兄に慕容翰、弟に慕容仁慕容昭慕容評らがいる。


  1. ^ 『晋書』では元真とするが、『十六国春秋』では元貞とする
  2. ^ 『漢魏叢書』に収録されている『十六国春秋』では振武将軍とする
  3. ^ 『十六国春秋』による。『晋書』によれば317年に冠軍将軍に任じられた際に左賢王・望平侯を拝命している
  4. ^ 「行」とは臨時もしくは代行の意味。父が東晋朝廷より賜っていた官職である平州刺史の代行者である事を意味する。但し、東晋朝廷から許可は得ていないので、あくまで自称である。
  5. ^ 『十六国春秋』によれば、父の爵位である遼東公を継ぐ事も同時に宣言している(東晋からの承認は得られておらず、これもあくまで自称である)
  6. ^ 『十六国春秋』では左長史とする
  7. ^ 『十六国春秋』では、謀反が露見して慕容昭を誅殺した後に慕容皝は慕容仁の下へ使者を送っている
  8. ^ 正確な場所は不明だが、『資治通鑑』胡三省注によればの入り口だという。
  9. ^ 郎中令は本来王国に設置される役職であり、慕容皝は公の位しか持っていないが、独断で配置している。
  10. ^ 『資治通鑑』胡三省注による
  11. ^ 『資治通鑑』胡三省注によると、城大とは城主の旧い呼び名である
  12. ^ 『晋書』では先に慕容汗が敗れており、その後に石琮が段蘭を退却させているが、『資治通鑑』では順序が逆になっている
  13. ^ 『晋書』・『十六国春秋』では渉弈干とも記載される
  14. ^ 『資治通鑑』では回水とする
  15. ^ 『資治通鑑』では3月の出来事とするが、『十六国春秋』では1月の出来事とする
  16. ^ 棘城にある城門の一つだと思われる。
  17. ^ 『資治通鑑』胡三省注によると、晋でいうところの尚書令だとする
  18. ^ 『十六国春秋』では劉睦とも
  19. ^ 『資治通鑑』胡三省注によると、晋でいうところの侍中だとする
  20. ^ 『資治通鑑』胡三省注によると、晋でいうところの散騎常侍だとする
  21. ^ 廃した理由は、後趙からの圧力を逸らす為であると考えられる(独立国ではなく、あくまで後趙に臣従する藩国であるという姿勢を後趙へ示すため)。
  22. ^ 『十六国春秋』では孫永とも
  23. ^ 慕容皝は内史高詡へ「これをいかにして防ぐべきか」と尋ねると、高詡は「趙兵は強いといえども憂うには及びません。ただ堅守して拒むだけで、何も出来ますまい」と述べた。だが、慕容皝はなおも不安を拭う事が出来ず、城を放棄して後退しようと考えたが、側近の慕輿根が「趙は強大であり我々は弱小です。もし大王(慕容皝)が逃げれば趙は調子づき、その勢いで我が国へ攻め込めば、兵はさらに強くなり食糧も確保出来、もはや打つ手は無くなります。敵も大王の逃亡を望んでいるというのに、わざわざその手に乗ってどうするというのですか!今は守りを固めて籠城すれば、我が軍の志気は百倍します。敵の攻撃を持ちこたえれば、付け入る隙も見つかるでしょう。戦う前に逃げ出してしまえば、万に一つも望みはありませんぞ!」と諫めたので、思いとどまった。それでも慕容皝の不安は完全に払拭出来てはいなかったが、玄菟郡太守劉佩は進み出て「今、強寇が外にあり、衆人の心は恐れおののいております。事の安危は一人にかかっており、大王は逃れるなどと考えずに、将士を鼓舞して自らの強を表すべきであって、弱を示すべきではありません。今、事は急を要します。臣がこれから出撃して、敵に大勝してみせます。そうすれば、安心するに足りるでしょう」と応えた。さらに慕容皝は封奕へも対応策を問うと、封奕は「石虎の凶暴残虐は甚だしく、民・神共に苦しんでおります。禍敗は必至であり、それが今日なのです!今、奴らは国を空にして遠くから来寇しておりますから、攻守の勢いは異なっております。たとえその兵馬が精強といえども、煩いを為すには足りますまい。兵を留めたまま月日を重ねれば、必ずや隙を生むことでしょう。ただ堅守してその時を待つのみです」と説いた。これにより、遂に慕容皝の心は落ち着きを取り戻した。
  24. ^ 『晋書』慕容皝載記による。『十六国春秋』によれば、この時ではなく戦後処理が済んだ後に、慕容皝により築城されている
  25. ^ 『資治通鑑』胡三省注によると、灤河の支流の一つである武烈河は古名を三蔵水といったという。三蔵口はその河口部と思われる
  26. ^ 『資治通鑑』に基づく。一方『十六国春秋』では咸康6年(340年)8月の出来事とする
  27. ^ 「臣究觀前代昏明之主、若能親賢並建、則功致升平。若親黨后族、必有傾辱之禍。是以周之申伯號稱賢舅、以其身藩於外、不握朝權。降及秦昭、足為令主、委信二舅、幾至亂國。逮于漢武、推重田蚡、萬機之要、無不決之。及蚡死後、切歯追恨。成帝闇弱、不能自立、内惑艶妻、外恣五舅、卒令王莽坐取帝位。毎覽斯事、孰不痛惋!設使舅氏賢若穰侯、王鳳、則但聞有二臣、不聞有二主。若其不才、則有竇憲、梁冀之禍。凡此成敗、亦既然矣。苟能易軌、可無覆墜。陛下命世天挺、當隆晋道、而遭國多難、殷憂備嬰、追述往事、至今楚灼。跡其所由、實因故司空亮居元舅之尊、勢業之重、執政裁下、輕侮邊將、故令蘇峻、祖約不勝其忿、遂致敗國。至今太后發憤、一旦升遐。若社稷不靈、人神無助、豺狼之心當可極邪!前事不忘、後事之表、而中書監、左將軍冰等内執樞機、外擁上將、昆弟並列、人臣莫疇。陛下深敦渭陽、冰等自宜引領。臣常謂世主若欲崇顯舅氏、何不封以藩國、豊其祿賜、限其勢利、使上無偏優、下無私論。如此、榮辱何從而生!噂沓遝何辭而起!往者惟亮一人、宿有名望、尚致世變、況今居之者素無聞焉!且人情易惑、難以戸告、縱今陛下無私于彼、天下之人誰謂不私乎!臣與冰等名位殊班、出處懸邈、又國之戚昵、理應降悦、以適事會。臣獨矯抗此言者、上為陛下、退為冰計、疾苟容之臣、坐鑒得失。顛而不扶、焉用彼相!昔徐福陳霍氏之戒、宣帝不從、至令忠臣更為逆族、良由察之不審、防之無漸。臣今所陳、可謂防漸矣。但恐陛下不明臣之忠、不用臣之計、事過之日、更處焦爛之後耳。昔王章、劉向毎上封事、未嘗不指斥王氏、故令二子或死或刑。谷永、張禹依違不對、故容身苟免、取譏於世。臣被髪殊俗、位為上將、夙夜惟憂、罔知所報、惟當外殄寇仇、内盡忠規、陳力輸誠、以答國恩。臣若不言、誰當言者!」
  28. ^ 「君以椒房之親、舅氏之昵、總據樞機、出内王命、兼擁列將州司之位、昆弟網羅、顯布畿甸。自秦、漢以來、隆赫之極、豈有若此者乎!以吾觀之、若功就事舉、必享申伯之名、如或不立、將不免梁竇之跡矣。毎睹史傳、未嘗不寵恣母族、使執權亂朝、先有殊世之榮、尋有負乘之累、所謂愛之適足以為害。吾常忿歴代之主、不盡防萌終寵之術、何不業以一土之封、令藩國相承、如周之斉、陳?如此則永保南面之尊、復何黜辱之憂乎!竇武、何進好善虚己。賢士歸心、雖為閹豎所危、天下嗟痛、猶有能履以不驕、圖國亡身故也。方今四海有倒懸之急、中夏逋僭逆之寇、家有漉血之怨、人有復仇之憾、寧得安枕逍遙、雅談卒歳邪!吾雖寡徳、過蒙先帝列將之授、以數郡之人、尚欲併呑強虜、是以自頃迄今、交鋒接刃、一時務農、三時用武、而猶師徒不頓、倉有餘粟、敵人日畏、我境日廣、況乃王者之威、堂堂之勢、豈可同年而語哉!」
  29. ^ 「鄧伯山(鄧嶽)昔送此犀皮両襠鎧一領雖不能精好謂是異物故復致之」
  30. ^ 『十六国春秋』では郭悕とも
  31. ^ 『資治通鑑』では龍山の西とするが、『十六国春秋』では龍山の南とする
  32. ^ 『魏書』には「8月、慕容元真(慕容皝)は使者を派遣して自らの娘を娶るよう勧めた」とだけ記載があり、戦争が起こった事は特に記されていない
  33. ^ 「古者什一而税、天下之中正也。降及魏、晋、仁政衰薄、假官田官牛者不過税其什六、自在有牛者中分之、猶不取其七八也。自永嘉以來、海内蕩析、武宣王綏之以徳、華夷之民、萬里輻湊、襁負而歸之者、若赤子之歸父母。是以戸口十倍於舊、無用者什有三四。及殿下継統、南摧強趙、東兼高句麗、北取宇文、拓地三千里、增民十萬戸、是宜悉罷苑囿以賦新民、無牛者官賜之牛、不當更收重税也。且以殿下之民用殿下之牛、牛非殿下之有、將何在哉!如此、則戎旗南指之日、民誰不簞食壺漿以迎王師、石虎誰與處矣!川瀆溝渠有廢塞者、皆應通利、旱由灌漑、潦則疏洩。一夫不耕、或受之饑。況游食數萬、何以得家給人足乎?今官司猥多、虚費廩祿、苟才不周用、皆宜澄汰。工商末利、宜立常員。學生三年無成、徒塞英俊之路、皆當歸之於農。殿下聖徳寛明、博采芻蕘。参軍王憲、大夫劉明並以言事忤旨、主者處以大辟、殿下雖恕其死、猶免官禁錮。夫求諫諍而罪直言、是猶適越而北行、必不獲其所志矣!右長史宋該等阿媚苟容、輕劾諫士、己無骨鯁、嫉人有之、掩蔽耳目、不忠之甚者也!」
  34. ^ 「覽封記室之諫、孤實懼焉。國以民為本、民以穀為命、可悉罷苑囿以給民之無田者。實貧者、官與之牛、力有餘願得官牛者、並依魏、晋舊法、溝瀆果有益者、令以時修治。今戎事方興、勲伐既多、歳未可喊、俟中原平一、徐更議之。工商、學生皆當裁擇。夫人臣關言於人主、至難也、雖有狂妄、當擇其善者而從之。王憲、劉明、雖罪應廢黜、亦由孤之無大量也、可悉復本官、仍居諫司。封生蹇蹇、深得王臣之體、其賜錢五萬。宣示内外、有欲陳孤過者、不拘貴賤、勿有所諱!」
  35. ^ 春秋時代の諸侯は周王朝を盟主に仰ぎながらも、周王朝とは異なる独自の紀念法を用いていた。基本的には君主が即位した年を「元年」と定め、在位期間中は1年経過する毎に「2年」「3年」と加算していき、その君主が亡くなって代替わりすれば、その年を改めて「元年」と定めて数えなおしていた。
  36. ^ 東晋の元号は廃したものの、その傘下から離脱したわけではないので、前燕独自の元号はまだ存在しない。
  37. ^ 江南にある呉県とは別と思われる。
  38. ^ ここでいう「燕国」とは国家の事ではなく、行政区分の事である。
  39. ^ 『十六国春秋』では少し記述が異なり、勃海郡を興集県に、河間郡を寧集県に、広平郡と魏郡を興平県に、東萊郡と北海郡を育黎県に、呉郡を呉県に編入したという意味になっている
  40. ^ 後の小獣林王である高丘夫の立太子は元璽4年(355年)とされているので、別人の可能性あり
  41. ^ 『資治通鑑』では10月とするが、『十六国春秋』では9月とする
  42. ^ 建威将軍慕容翰は慕容皝へ「宇文部は強盛を誇り、度々我が国へ害を為しております。宇文逸豆帰は宇文乞得亀から大人の座を簒奪し、国民は彼に懐いておりません。また、彼自身の素質も凡庸で将帥の器ではありません。国に防備は無く、軍には規律がありません。臣はしばらくあの国におりましたから、その地形は知り尽くしております。彼等は、羯族の強国(後趙)と友好関係にありますが、かの国とは遠く離れておりますので助けには成らないでしょう。今戦えば、百戦百勝は間違いありません。ただ、高句麗には注意が必要です。彼等は宇文部と連絡を密に保っています。宇文部が滅ぼされたら、次は我が身に災厄が降りかかると知っているのです。ですから、我等が宇文部へ攻め込めば、その隙を衝いて国へ侵攻して来ることでしょう。もしも少数の兵卒しか国内に残さなければ撃破されますし、守備を堅めすぎれば遠征の兵力が不足します。つまり、高句麗は心腹の病なのです。宇文部攻略の為には、それに先がけてまず高句麗を討つべきです。彼らの兵力を見ると、一度の攻勢で勝てます。この時、宇文部は守りを固めるだけで攻撃はしますまい。 既に高句麗を奪ってから、転進して宇文部を攻め取る。二国を平定すれば、東海は我が内海となります。国は富み兵は強くなり、後顧の憂いもなくなります。そうしてこそ、中原進出を図ることができるのです」と進言すると、慕容皝はこれに同意して高句麗討伐に乗り出した。
  43. ^ 高詡は慕容皝へ「宇文部は強盛であり、今取らなくば必ずや国患となります。これを伐てば必ず克ちますが、早く動かねば不利となります」と勧めている。
  44. ^ 南羅城の主を意味する。
  45. ^ 慕容翰は「宇文逸豆帰は、国内の精鋭をかき集めて渉夜干の軍へ配属しました。渉夜干にはもとより勇名があり、国中の頼みの綱となっております。逆に言えば、彼さえ撃退すれば、宇文部は攻撃せずとも自ずから潰れることでしょう。それに、臣は奴らの人となりを知っております。虚名こそありますが、与しやすい相手です。退却するのは我が方の士気を挫くだけです」と返した。
  46. ^ 『資治通鑑』では5千戸とするが、『十六国春秋』では5万戸とする
  47. ^ 『十六国春秋』では慕容恪となっている
  48. ^ 『十六国春秋』では軽車将軍とする
  49. ^ 『資治通鑑』胡三省注によると、大清河の支流である易水が武遂県の南を通過する場所にある渡し場だという
  50. ^ 『通鑑考異』によれば、『燕書』には燕・范陽2郡の男女数千人を略奪してから帰還したと記載があるという
  51. ^ 楽安は安楽とも記載される。
  52. ^ 『鮮卑族傑出政治家慕容皝』による
  53. ^ 『十六国春秋』では慕容皝の出来事とするが、『太平御覧』ではこれを後燕時代の出来事とする


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