遼東を奪還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)
4月、慕容仁は車騎将軍・平州刺史・遼東公を自称し、自らこそが慕容廆の跡継ぎである事を標榜した。 11月、慕容皝は遼東討伐の兵を挙げ、自ら軍を率いて襄平まで進撃すると、遼東城の守将の一人である王岌は城を明け渡す事を条件に降伏を請うた。こうして慕容皝はさしたる抵抗を受けずに入城を果たし、遼東城の守将翟楷・龐鑒は単騎で逃走した。慕容皝は慕容仁に与した罪で遼東の民を全員生き埋めにしようとしたが、高詡は「遼東の反乱は彼らの本意では無く、仁(慕容仁)の凶威に止む無く従ったに過ぎません。今、元凶(慕容仁)が未だ生きており、我らは始めてこの城を得たばかりです。にもかかわらずこのようなことをしてしまっては、今後諸城が来降する事は無くなるでしょう」と諫めたので、慕容皝はこれに同意して取りやめた。その後、慕容仁の任じた居就県令劉程は降伏して城を明け渡し、新昌出身の張衡もまた県令を捕えて降伏した。こうして遼東が完全に慕容皝の支配下に戻ると、慕容皝は慕容仁が任じた郡太守や県令などを処断すると共に、杜群を遼東相に任じて統治に当たらせ、さらに遼東の主要な豪族を本拠地の棘城へ移住させた。その後、遼東に和陽・武次・西楽の三県を設置してから軍を帰還させた。遼東の失陥を知った慕容仁は大いに警戒を強め、平郭の守りを固めた。 12月、慕容仁は兵を派遣して慕容皝の領土である新昌を攻撃したが、督護王寓はこれを返り討ちにした。その後、慕容皝は新昌を移して襄平に編入した。
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