遼東・遼西戦線(反乱軍左翼)
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「ナヤン・カダアンの乱」の記事における「遼東・遼西戦線(反乱軍左翼)」の解説
先述したように、カサル家のシクドゥル率いる軍勢はナヤンの本軍とは別行動をとり、遼東・遼西一帯を制圧すべく遼河流域に南下してきた。シクドゥル軍の第一攻略目的は遼東の要衝咸平府(現在の開原市)であり、そこから更に遼河を渡って豪州・懿州(現在の阜新市)にまで進軍しようとしていた。このような事態に対し、豪州・懿州は守備兵力が足りないことを理由に朝廷に援軍要請をし、諸衛の軍1万人・モンゴル軍1千人が派遣された。 これに対応するべく編成・派遣されたのがクビライの庶子アヤチ率いる軍団で、アヤチ軍はアヤチ自ら率いる軍団、ジャライル部出身のタチュやアラーウッディーン率いるジャライル軍、イレグ・サカルや王徳亮ら率いる北京宣慰使軍の3部隊より構成されていた。遼東一帯に南下してきたシクドゥルはナヤンの乱に呼応して出兵した女直人との連動によってタチュら率いる部隊を一時敗退させ、タチュは妻子を棄てて麾下の12騎とともに建州に逃れざるを得なくなった。その後、咸平府から1500里離れた地点でシクドゥル軍とアヤチ軍の会戦が行われたが、敵将のタイサ・バートルの奮戦やタチュが流れ矢に当たってしまったことなどにより、アヤチ軍が劣勢となった。シクドゥル軍のテケ・チャルチらはアヤチの本陣にまで迫ってこれを捕虜としようとしたが、タチュらの奮戦によってアヤチはなんとか撤退し、遼河を西に渡って遼西地方にまで逃れた。その後シクドゥル軍は当初の目標であった咸平府の占拠に成功するが、6月中にはナヤン本隊がクビライ軍に敗れたこともあってシクドゥル軍の勢いは俄に衰えた。同年7月、アヤチとタチュ率いる軍は瀋州(現在の瀋陽市)に、亦児撒合は懿州に進軍してシクドゥル軍を討伐し、シクドゥル率いる反乱軍は完全に平定された。
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