遼東・遼西戦線とは? わかりやすく解説

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遼東・遼西戦線(反乱軍左翼)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:37 UTC 版)

ナヤン・カダアンの乱」の記事における「遼東・遼西戦線(反乱軍左翼)」の解説

先述たようにカサル家シクドゥル率い軍勢ナヤン本軍とは別行動をとり、遼東遼西一帯制圧すべく遼河流域南下してきた。シクドゥル軍の第一攻略目的遼東要衝咸平府(現在の開原市)であり、そこから更に遼河渡って豪州・懿州(現在の阜新市)にまで進軍しようとしていた。このような事態対し豪州・懿州は守備兵力が足りないことを理由朝廷援軍要請をし、諸衛の軍1万人・モンゴル軍1千人派遣された。 これに対応するべく編成派遣されたのがクビライ庶子アヤチ率い軍団で、アヤチ軍はアヤチ自ら率い軍団ジャライル部出身タチュやアラーウッディーン率いジャライル軍、イレグ・サカル王徳亮ら率い北京宣慰使軍の3部隊より構成されていた。遼東一帯南下してきたシクドゥルナヤンの乱呼応して出兵した女直人との連動によってタチュ率い部隊一時敗退させ、タチュ妻子棄てて麾下12とともに建州逃れざるを得なくなったその後咸平府から1500里離れ地点シクドゥル軍とアヤチ軍の会戦が行われたが、敵将のタイサ・バートルの奮戦タチュ流れ矢当たってしまったことなどにより、アヤチ軍が劣勢となったシクドゥル軍のテケ・チャルチらはアヤチ本陣にまで迫ってこれを捕虜としようとしたが、タチュらの奮戦によってアヤチはなんとか撤退し遼河を西に渡って遼西地方にまで逃れたその後シクドゥル軍は当初目標であった咸平府の占拠成功するが、6月中にはナヤン本隊クビライ軍に敗れたこともあってシクドゥル軍の勢い俄に衰えた同年7月アヤチタチュ率いる軍は瀋州(現在の瀋陽市)に、亦児撒合は懿州に進軍しシクドゥル軍を討伐し、シクドゥル率い反乱軍は完全に平定された。

※この「遼東・遼西戦線(反乱軍左翼)」の解説は、「ナヤン・カダアンの乱」の解説の一部です。
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