遼東を統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 22:53 UTC 版)
341年10月、度遼将軍に任じられ、平郭の統治を委ねられた。遼東一帯はかつて慕容翰・慕容仁の統治により善く鎮まっていたが、彼ら以降の諸将の中でこれに続く者はいなかった。だが、慕容恪が平郭を鎮守するようになると、彼は古くからの民を懐け、また新たに流入してきた民を撫したので、情勢は再び安定するようになった。また、幾度も高句麗の軍を破って大いにその勢威を示したので、高句麗は恐れをなして敢えて攻め入ろうとはしなくなった。 344年2月、慕容皝が宇文部討伐の為に親征を行うと、慕容恪は広威将軍慕容軍・平狄将軍慕容覇・折衝将軍慕輿根らと共に別動隊を率いて三道に分かれて進軍した。宇文部の大人宇文逸豆帰は南羅大渉夜干に精鋭を与えて迎撃を命じたが、前燕軍はこれを返り討ちにして渉夜干を戦死させた。これにより宇文逸豆帰は軍を放棄して漠北へ逃走し、宇文部の勢力は散亡した。この戦勝により前燕は領土を千里余り広げた。 345年10月、慕容恪は高句麗へ侵攻すると、南蘇城(現在の遼寧省丹東市振安区五龍山の南)を陥落させた。その後、守宰(郡太守や県令などの地方長官)を設置してから軍を帰還させた。
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