慕容恪とは? わかりやすく解説

慕容恪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 16:23 UTC 版)

慕容 恪(ぼよう かく、生年不詳[1] - 367年5月)は、五胡十六国時代前燕政治家武将である。は元恭。鮮卑慕容部の出身であり、昌黎郡棘城県(現在の遼寧省錦州市義県の北西)の人。慕容皝の四男で、兄に慕容儁、弟に慕容垂慕容徳がいる。母は貴人の高氏。数多の戦役で勝利を収め、前燕の中原進出に大きく貢献した。後年には宰相としても国家を支え、全盛期を築き上げた。後世の人より五胡十六国随一の名将であると評される[2]


  1. ^ 晋書』載記では慕容恪が15歳で兵を授かったとあり、『資治通鑑』では慕容恪が軍を率いたと記録される最初の年が咸康4年(338年)であるため、生年は太寧2年(324年)以前と推測できる。
  2. ^ 《陳寅恪魏晋南北朝史講演録》:貴州人民出版社,2008年
  3. ^ a b c d e 『晋書』『慕容恪載記」巻111、『十六国春秋』巻30
  4. ^ 『十六国春秋』巻24による
  5. ^ a b c d 『資治通鑑』巻96、『十六国春秋』巻24
  6. ^ 『晋書』慕容皝載記による。『十六国春秋』によれば、慕容恪は築城しておらず、今回の一連の戦後処理が済んだ後に、慕容皝主導により築城されている。
  7. ^ 『十六国春秋』では9月とする
  8. ^ a b c 『資治通鑑』巻97、『十六国春秋』巻25
  9. ^ 『資治通鑑』巻98
  10. ^ 『晋書』『慕容恪載記」巻111及び『十六国春秋』巻30では「中原は未だ一つにはなっておらず、大いなる事業はまだ建てられたばかりである。恪(慕容恪)は智勇共に申し分ない。汝はこれに委ねるように」とある
  11. ^ a b c 『資治通鑑』巻98、『十六国春秋』巻26
  12. ^ a b c d e 『資治通鑑』巻99、『十六国春秋』巻26
  13. ^ 『十六国春秋』では派水(大清河の支流の一つである沙河)一帯で交戦したとも
  14. ^ a b c 『晋書』「慕容儁載記」巻110
  15. ^ 『資治通鑑』では3月の出来事とするが、『十六国春秋』では2月の出来事とする
  16. ^ 『資治通鑑』では5月の出来事とするが、『十六国春秋』では3月の出来事とする
  17. ^ 『資治通鑑』では慕容彭とする
  18. ^ 『資治通鑑』では永和10年(354年)3月の出来事とするが、『十六国春秋』では永和9年(353年)3月の出来事とする
  19. ^ 『十六国春秋』巻30によれば、この時大将軍も拝命している
  20. ^ 『資治通鑑』では10月の出来事とするが、『十六国春秋』では11月の出来事とする
  21. ^ 『資治通鑑』では12月の出来事とするが、『十六国春秋』では11月の出来事とする
  22. ^ a b c d 『資治通鑑』巻100、『十六国春秋』巻27
  23. ^ 『十六国春秋』では升平元年(357年)10月の出来事とするが、『資治通鑑』では升平2年(358年)10月の出来事とする。また、『十六国春秋』では升平元年(357年)10月と升平2年(358年)10月の2回に渡って諸葛攸は東郡へ攻め入っている
  24. ^ 『十六国春秋』『晋書』では諸葛攸撃退直後の出来事とするが、『資治通鑑』では升平3年(359年)10月の出来事とする
  25. ^ a b 『晋書』「慕容暐載記」巻110
  26. ^ a b c d e f g h i j k l m 『資治通鑑』巻101、『十六国春秋』巻28
  27. ^ 『十六国春秋』では3月の出来事とする
  28. ^ 『十六国春秋』では傅末波とも
  29. ^ 陽騖が黎陽で後趙の残党である高昌に敗れた事を指していると思われる
  30. ^ 『十六国春秋』では7月とする
  31. ^ 「臣らは朽暗であり、経国の器ではありません。過ぎたる荷ではありますが、先帝から抜擢の恩を受け、また陛下からも殊常の遇を蒙りました。軽才な者が猥りに宰相の地位を窃位しても、上は陰陽を調和させる事も、下は庶政を治める事も出来ません。そして水旱(水害・旱魃)により和を失い、彝倫(人が常に守るべき道)の順序が乱れるに至りました。轅(馬車の前方に二本出ている舵となる棒)は弱いにも関わらず任は重く、夕(夜)には慎んでただ憂いております。臣らが聞くところによりますと、王者とは天に則して国を建て、方を弁えて位を但し、司(役人)は必ず才を量り、官(官僚)はただ徳をもって取り立てるものです。台傅の重とは三光を參理するものであり、苟しくも正しい人を得られなく場、則ち霊曜(天)を汚す事になります。『尸禄は殃を貽し、負乗は悔を招く(無能な高官は災いを残し、小人なる君主は後悔を招く)』とは、古来からの常道であり、未だこれに違ったことはありません。旦(周公旦)はその勲聖をもって、近くは二公(呂尚・召公奭)の不興を買い、遠くは管(管叔鮮)・蔡(蔡叔度)の流言を招きました。どうして臣らは縁戚の寵がために才に釣り合わぬ栄を授かり、久しく天官を汚すを可とし、賢路を塵蔽出来ましょうか!ここに中年をもって上奏し、丹款(誠意)を披陳(思いを隠さず述べる事)する次第です。聖恩は遐棄を忍ばず、旧臣として取り立てましたが、何もせずに栄誉を盗んでいては、その過ちは厚くなるばかりです。鼎司の身分のまま罪を待ちましたが、歳余して辰の紀となりました。忝くも宰衡を冒し、ここにおいて七載となります。心に経略を有してはおりますが、その務めを全うする事が出来ておらず、二方(東晋・前秦)に干紀(道理に背く事)させ、その跋扈を未だ裁く事が出来ておりません。同文(国民)の詠には、盛漢を慚する思いが見え、先帝より託付された規に深く乖離しており、陛下の垂拱(天下が平穏に治まっている事)の義にも甚だ違っております。臣らは鋭敏ではありませんが、君子の言を密かに聞きますに、虞丘(春秋時代楚の虞丘子)の避賢の美を敢えて忘れ、すなわち両疏(前漢の疏広・疏受)の知止の分に従います。謹んで太宰・大司馬・太傅・司徒の章綬を返上いたします。ただ昭かなる許しをを垂れん事を」
  32. ^ 「朕が天の助けを得られていないばかりに、早くに乾覆(天からの覆い)は傾いてしまった。先帝が託したのはただ二公(慕容恪・慕容評)のみである。二公は懿親(親しい親族)にして広大な徳を有し、その勲功は魯・衛よりも高く、王室を翼賛(補佐)し、朕躬(私)を輔導してくれている。宣慈(博愛)にして恵和を有し、座して旦を待つように心情は切迫し、夕になっても怠る事は無く、美の極致である。故に外においては群凶を掃い、内においては九土を清める事が出来、四海は晏如(安らかで落ち着いている様)し、政は和して時に適っている。宗廟・社稷の霊すらも、公らの力によるものかもしれない。今、関右(関西)では未だ氐が従わず、江・呉の地では燃え残った虜がおり、まさしく謀略に頼り、六合を混寧させねばならぬ時なのだ。どうして虚己・謙沖なる態度で委任の重を違えてよいだろうか!王はその独善の小なる二疏を割き、公旦(周公旦)の復袞(皇帝の礼服である袞衣を返上するという意味。周公旦が成王の幼い頃は摂政となり、成人すると政権を返上した故事を指している)の大を成すように」
  33. ^ 「そもそも徳を立てる者は必ず善で終える事で名を為し、佐命たる者は功を成す事をもって手柄としたのだ。公らと先帝は洪基(大きな事業の基礎)を開構し、天命を承受し、まさに広く群醜を夷滅し、隆周の跡を再興したのだ。災いが橫流して乾光は輝きを失ってしまい、朕は眇小な身でありながら猥りにも大業を担う事になったが、上は先帝の遺志を成す事も出来ずに二虜(東晋・前秦)を遊魂させており、功は未だ成っておらず、どうして沖退(謙虚に辞退)するべき時であろうか。それに古の王者とは、天下に栄華をもたらす事が出来なければ、四海を担っているかのように憂い、然る後に仁讓の風を吹かせ、比屋(家々)は徳行に富むに至ったのだ。今、道化は未だ純ならず、鯨鯢(悪党)は未だ殄されず、宗社(宗廟・社稷)の重は、朕の身だけではなく、公らが憂う所である。そこで考えるのは、兆庶を寧済して難を靖んじ風を敦くし、美を将来に垂れんとする事だ。さすれば周・漢の事跡に並ぶであろう。至公に違っている事をもって常節を崇飾するべき時ではないのだ」
  34. ^ a b 『晋書』「慕容垂載記」巻123
  35. ^ 『資治通鑑』では「今、南には遺晋がおり、西には強秦がいる。二国とも常に進取の志を蓄えており、我が国に隙がないのを顧みているに過ぎぬ。そもそも国の興廃は輔相(宰相)にかかっており、中でも大司馬は六軍を総統する地位であり、それに見合う人物を任じなければならない。我が死んだ後は、親疎を考えるに汝か沖(慕容沖)となるであろう。汝らは才識があり明敏ではあるが、いかんせんまだ年少であり、多難の時節には堪えられぬであろう。呉王(慕容垂)は天資英傑であり、その知略は世を超絶している。汝ららがもし大司馬にこれを推すのであれば、必ず四海を一つに纏める事が出来るであろう。ましてや外敵など恐るるに足らん。身を慎むのだ。利を貪って害を忘れ、これを国家の意とする事のないように」
  36. ^ 小林聡 1988.
  37. ^ 『資治通鑑』巻118
  38. ^ 『新唐書』礼楽志 巻15
  39. ^ 『資治通鑑』巻102


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