慕容曄とは? わかりやすく解説

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慕容曄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/17 13:19 UTC 版)

慕容 曄(ぼよう よう、生年不詳 - 元璽5年7月12日356年8月24日))は、五胡十六国時代前燕の人物。景先昌黎郡棘城県の出身。前燕の皇帝慕容儁の長男。皇太子に立てられ、将来を嘱望されたが早逝した。

生涯

燕王慕容儁から世子に立てられた。

永和6年(350年)2月、慕容儁は後趙への侵攻を決断、内史劉斌を大司農に任じ、典書令皇甫真とともに慕容曄に龍城の留守を任せた。

元璽2年(353年)2月、慕容儁が皇帝に即位したことに伴い、皇太子に立てられて、龍城から薊城に遷った。

元璽5年(356年)7月、亡くなった。献懐太子と諡された。

人物・逸話

光寿3年(359年)2月、慕容儁は群臣を蒲池に集めて宴を催した。慕容儁が涙を流して、群臣に慕容曄の評について問うと、司徒左長史李績が「太子(慕容曄)は大徳が八つありました。至孝は天より授かり、性質は道理に適っていました。これが一つ。聡敏かつ慧悟であり、機思は流れるようでした。これが二つ。沈毅で決断が早く、その理に暗いものはありませんでした。これが三つ。諛言を嫌い、直言を好んでいました。これが四つ。学問や賢人を愛し、目下の者に問うことを恥じることはありませんでした。これが五つ。その姿は古の英雄より勝り、才芸は時代を超越していました。これが六つ。襟を正して謙虚に師の教えを尊んでいました。これが七つ。財を惜しまず施しを好み、民衆の苦しみに寄り添っていました。これが太子の八つの大徳です」と評した。慕容儁はこれを聞き、慕容曄が存命であれば、死んでも憂う事はなかったと嘆いた[1]

家系

兄弟

姉妹

  • 清河公主

脚注

  1. ^ 『晋書』巻110 慕容儁

参考文献




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