河南へ進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:40 UTC 版)
357年1月、幽州刺史乙逸を中央に召喚し、左光禄大夫に任じた。 2月、次男の中山王慕容暐を亡くなった慕容曄に代わって皇太子に立て、領内の死罪以下に恩赦を下し、光寿元年と改元した。 5月、撫軍将軍慕容垂・中軍将軍慕輿虔・護軍将軍平熙らに歩兵騎兵合わせて8万を与え、塞北(北の国境の外側)に割拠している丁零討伐に向かわせた。慕容垂らはこれを大破し、討ち取るか捕らえた者は10万余りを数え、鹵獲した馬は13万匹、牛羊は億万を数えた。 同月、代へ使者を派遣し、貢物を送った。 6月、段龕を殺害し、その配下3千人余りを生き埋めとした。 同月、匈奴単于の賀頼頭は部落3万5千を率いて前燕に帰順した。慕容儁は賀頼頭を寧西将軍に任じて雲中郡公に封じ、代郡の平舒城に住まわせた。 10月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が東郡を攻撃し、武陽へ侵入した。慕容儁は大司馬慕容恪に迎撃を命じ、司空陽騖と楽安王慕容臧にも従軍させた。慕容恪は諸葛攸を敗走させると、諸葛攸は泰山へ退却した。北中郎将謝万は当時、梁・宋の地に駐屯していたが、慕容恪襲来の報を聞いて大いに恐れて軍を退却させた。慕容恪はそのまま軍を進めて河を超え、河南の地を攻略した。汝南・潁川・譙・沛の各郡に守宰を置いて帰還した。また、上党へ侵攻すると、東晋の冠軍将軍・河内郡太守馮鴦は衆を挙げて前燕に帰順した。これにより慕容儁は尽く河北の地を領有した。
※この「河南へ進出」の解説は、「慕容儁」の解説の一部です。
「河南へ進出」を含む「慕容儁」の記事については、「慕容儁」の概要を参照ください。
- 河南へ進出のページへのリンク