河南収容所(元・延吉監獄)に収容された満蒙開拓青少年義勇軍
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「延吉捕虜収容所」の記事における「河南収容所(元・延吉監獄)に収容された満蒙開拓青少年義勇軍」の解説
延吉では捕虜収容所の他に、延吉監獄(現・延辺芸術劇場)にも元間島省の高官や民間の有力者、満蒙開拓青少年義勇軍の少年ら日本人が収容され、劣悪な環境のもとで、多くの人々が命を落とした。 また、溥儀夫人・婉容(満州国皇后)も1946年6月20日、延吉監獄で死亡したといわれる。遺骸は「延吉市南山」あるいは「北山」に葬られたといわれるが確かな場所は不明。 監獄の夜は更に辛かった。全員七百名余り、二棟の、もと囚人が働かされたのであろう製縫工場の大広間に寝かされた。古麻袋を蒲団がわりにした。零下十数度の夜、ぼろぼろの夏服のまま麻袋をかぶってでは寒くて寝られない。うつらうつらとしては目がさめる。夜があけると、横に寝ていた仲間が口唇は黒く冷たくなり、動かなくなっている。息が絶えて二、三時間もすると固く棒のようになる。死んだ仲間の衣服は、すぐ年長者のボスに剥ぎ取られ着用された。仲間の屍は監獄内の倉庫に置いた。毎朝友の死体を倉庫に運ぶのが日課になった。朦朧とした精神状態に皆がなっており、悲しみの涙も出ない。今日の友の死は明日の我が身なのだ。僕は、せめて、倒れてゆく友の名前だけでも書きとめておきたいと思ったが、筆記用具もなにもない。友の屍は、日が経つごとに増え、一人一人並べて安置する場所もなくなってきた。息が断え、痩せ細った友の顔は凍ててどす黒くなると誰だかわからなくなる。変色し、変形してしまう。安置場所もせまくて置場に困り、死体の上に死体を積み重ねざるをえない。黒く凍った裸体の屍を、材木のように積み上げる。(中田慶雄「還らぬ友」 『元満蒙開拓青少年義勇隊第五次京都中村中隊記念誌 義勇魂』・1971)
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