河南収容所に収容された満蒙開拓青少年義勇軍とは? わかりやすく解説

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河南収容所(元・延吉監獄)に収容された満蒙開拓青少年義勇軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 02:39 UTC 版)

延吉捕虜収容所」の記事における「河南収容所元・延監獄)に収容され満蒙開拓青少年義勇軍」の解説

延吉では捕虜収容所の他に、延吉監獄(現・延辺芸術劇場)にも元間島省高官民間有力者満蒙開拓青少年義勇軍少年日本人収容され劣悪な環境のもとで、多く人々命を落としたまた、溥儀夫人婉容満州国皇后)も1946年6月20日延吉監獄死亡したといわれる遺骸は「延吉市南山」あるいは「北山」に葬られといわれる確かな場所は不明監獄の夜は更に辛かった全員七百余り、二棟の、もと囚人働かされたのであろう縫工場の大広間寝かされた。古麻袋蒲団がわりにした。零下十数度の夜、ぼろぼろ夏服のまま麻袋かぶってでは寒くて寝られないうつらうつらとしては目がさめる。夜があけると、横に寝ていた仲間口唇黒く冷たくなり、動かなくなっている。息が絶えて二、三時間もすると固く棒のようになる死んだ仲間衣服は、すぐ年長者ボス剥ぎ取られ着用された。仲間の屍は監獄内の倉庫置いた毎朝友の死体倉庫に運ぶのが日課になった朦朧とした精神状態に皆がなっており、悲しみの涙も出ない今日の友の死は明日我が身なのだ。僕は、せめて、倒れてゆく友の名前だけでも書きとめておきたい思ったが、筆記用具なにもない。友の屍は、日が経つごとに増え一人一人並べて安置する場所もなくなってきた。息が断え、痩せ細った友の顔は凍てどす黒くなると誰だかわからなくなる。変色し変形してしまう。安置場所もせまくて置場困り死体の上死体積み重ねざるをえない黒く凍った裸体の屍を、材木のように積み上げる。(中田慶雄「還らぬ友」 『元満蒙開拓青少年義勇第五次京都中村中記念誌 義勇魂』・1971)

※この「河南収容所(元・延吉監獄)に収容された満蒙開拓青少年義勇軍」の解説は、「延吉捕虜収容所」の解説の一部です。
「河南収容所(元・延吉監獄)に収容された満蒙開拓青少年義勇軍」を含む「延吉捕虜収容所」の記事については、「延吉捕虜収容所」の概要を参照ください。

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