河南支配への道
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1926年(民国15年)1月20日、靳雲鶚の第1軍・劉鎮華の陝甘軍とともに国民軍第2軍の岳維峻の支配下にあった河南奪還に派遣され(鄂豫戦争)、1月26日、自身の隷下である賀国光・賈万興の2カ旅のほか、蕭耀南の部下であった孫建業ら鄂軍3カ旅からなる討豫鄂軍を率いて入省。29日、まず南東部の信陽を攻める。そこで蔣士傑率いる第11師に阻まれて苦戦したが、作戦を変更しようとはしなかった。2月10日、呉佩孚は信陽攻略を劉玉春(中国語版)の2カ旅と交代させ、確山への北進を命じた。その間にも、靳雲鶚は毅軍の米振標が帰順して無抵抗だったためやすやすと進軍し、2月26日に既に開封を制圧、更に岳維峻の国民軍第2軍主力がある鄭州に快進撃を続けていた。3月1日、寇英傑は省中央部の郾城・許昌を制圧、また豫軍総司令を称する。3月4日には鄭州で靳雲鶚と合流し、岳維峻を西へ追撃した。信陽はその後も抵抗を続けていたが、外国人宣教師や商会会長の仲裁で同月13日にようやく制圧できた。 靳雲鶚と寇英傑は互いに権力の座を巡って争ったため、調停に乗り出した呉佩孚は、3月17日、靳雲鶚を省長兼聯軍副司令とする一方、寇英傑を豫軍総司令兼河南督弁の職務を担わせた。呉佩孚の指示で賀国光を警督察処に任じ、阿片の取り締まりに乗り出す一方、5月7日から中旬にかけ、杞県・通許県・睢県などで紅槍会や自衛団を鎮圧、これにより20以上の村が焼かれ、1000人以上の農民が殺害された。16日、共産党員の蕭人鵠が紅槍会を率いて暴動を起こし、睢県城を攻撃する事件が起こる。寇英傑は8区からなる保安大隊を組織して「清郷」強化に乗り出し、更に7月15日、軍を動員して一斉囲剿を行った。 6月、樊鍾秀が登封で挙兵、宝豊県・魯山県・臨汝県・郟県の5県を制圧し、独立を宣言して自治を開始した。寇英傑は呉佩孚より鎮圧を命じられ、5県を包囲。しかし樊鍾秀は部隊の一部を密かに南陽に向けており、12日に南召県城を制圧し、14日に南陽を、4県を制圧。24日、西部の方城県で6日間激戦を繰り広げる。続いて舞陽県・葉県を確保し、7月2日、陝軍の陳家謨と連携して南陽に迫り、7日社旗県を奪還。19日、寇英傑は鄭州の第10師の任応岐と第16師の徐寿椿に方城県と葉県で督戦を命じ、自身は京漢鉄路を確保した。8月2日、張治公(中国語版)、劉佐竜が襄城・宝豊・郾城攻略を開始し2日後に占領。8月20日、樊鍾秀は南陽を出て湖北省へ逃れ、国民政府に易幟した。
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