河南支配への道とは? わかりやすく解説

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河南支配への道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 16:00 UTC 版)

寇英傑」の記事における「河南支配への道」の解説

1926年民国15年1月20日靳雲鶚第1軍劉鎮華の陝甘軍とともに国民軍第2軍岳維峻支配下にあった河南奪還派遣され鄂豫戦争)、1月26日自身隷下である賀国光・賈興の2カ旅のほか、蕭耀南部下であった孫建業ら鄂軍3カ旅からなる討豫鄂軍を率いて入省29日、まず南東部信陽攻める。そこで蔣士傑率いる第11師に阻まれ苦戦したが、作戦変更しようとはしなかった。2月10日呉佩孚信陽攻略を劉玉春(中国語版)の2カ旅と交代させ、確山への北進命じたその間にも、靳雲鶚は毅軍の米振標帰順し無抵抗だったためやすやす進軍し2月26日に既に開封制圧、更に岳維峻国民軍第2軍主力がある鄭州快進撃続けていた。3月1日寇英傑は省中央部郾城許昌制圧、また豫軍総司令称する3月4日には鄭州靳雲鶚合流し岳維峻西へ追撃した信陽その後抵抗続けていたが、外国人宣教師商会会長仲裁同月13日にようやく制圧できた。 靳雲鶚寇英傑互いに権力の座巡って争ったため、調停乗り出した呉佩孚は、3月17日靳雲鶚を省長兼聯軍副司令とする一方寇英傑を豫軍総司令河南督弁の職務を担わせた。呉佩孚指示賀国光を警督察処に任じ阿片取り締まり乗り出す一方5月7日から中旬にかけ、杞県通許県睢県などで紅槍会自衛団鎮圧、これにより20上の焼かれ1000人以上の農民殺害された。16日共産党員紅槍会率いて暴動起こし睢県城を攻撃する事件が起こる。寇英傑8区からなる保安大隊組織して「清郷」強化乗り出し、更に7月15日、軍を動員して一斉囲剿を行った6月樊鍾秀登封挙兵宝豊県魯山県臨汝県・郟県の5県を制圧し独立宣言して自治開始した寇英傑呉佩孚より鎮圧命じられ、5県を包囲。しかし樊鍾秀部隊一部密かに南陽向けており、12日南召県城を制圧し14日南陽を、4県を制圧24日西部方城県6日間激戦繰り広げる続いて舞陽県葉県確保し7月2日陝軍陳家謨と連携して南陽迫り7日社旗県奪還19日寇英傑鄭州の第10師の任応岐と第16師の徐寿椿方城県葉県督戦命じ自身は京漢鉄路確保した8月2日、張治公(中国語版)、劉佐竜が襄城・宝豊・郾城攻略開始し2日後占領8月20日樊鍾秀南陽出て湖北省逃れ国民政府易幟した。

※この「河南支配への道」の解説は、「寇英傑」の解説の一部です。
「河南支配への道」を含む「寇英傑」の記事については、「寇英傑」の概要を参照ください。

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