河南省での活動
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1932年(民国21年)、方策は河南省に異動し、河南省第3区行政督察専員に任命された。1935年(民国24年)9月からは河南省政府委員に起用され、民政庁庁長を兼任している。同年12月、商震が河南省政府主席に任ぜられると、李培基が民政庁長に就任したため、方は省政府委員専任に移った。1938年(民国27年)2月、商の省政府主席退任(後任は程潜)に伴い李も河南省を離れたため、方は民政庁長に返り咲いている。 同年9月に程潜が河南省政府主席を退くと、しばらく主席の地位は空白となったが、翌1939年(民国28年)2月に方策が省政府主席代理(民政庁長兼任)となった。9月、衛立煌が省政府主席となると、方は民政庁長として衛を支える。1942年(民国31年)1月に衛が退任して李培基が省政府主席となっても、方は引き続き同じ地位で李を補佐した。1944年(民国33年)7月、李が省政府主席を退任(後任は劉茂恩)すると、方も9年近く務めた民政庁長を辞任、軍事委員会中将参議に転じた。1945年(民国34年)、軍風紀巡視団主任委員に任命されている。日中戦争終結直後の同年10月20日、西安市にて病没。享年60。死後、陸軍中将位に加えて上将銜を追贈された。
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