河南旱魃と民衆の離反とは? わかりやすく解説

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河南旱魃と民衆の離反

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 16:20 UTC 版)

黄河決壊事件」の記事における「河南旱魃と民衆の離反」の解説

オドリック・ウーの河南省対す研究によれば堤防決壊の後、旱魃による1942年末の飢饉・1943年夏のイナゴ被害続きその時期に河南西部南部東部の順に伝染病被害があり、これらの時期死者300万人土地捨てた300万人救援を待つ飢えた人々は1,500万人数えた指摘している。日本は軍の展開のためだけでなく日本本国への現地からの食料移入を必要としていたものの、飢饉数年間、日本側は各地倉庫から食糧放出し他省からも雑穀移入し飢えた人々にも食べさせられる食糧供給を図る事が課題となったとされ、これは国民党共産党ともに同じ状況であったとしている。その一方でウー飢饉年月においても日本軍やその傀儡による過酷な食糧収奪の手法や苛烈徴発が行われていた事実多数報告し、それが農民屡々共産党側に追いやったとしている。これについて、徴発に関して国民党共産党含めたどの当事者似たようなもので特に敵対側の管轄地域多かったが、日本軍農民から徴発する為により組織だった暴力拷問用いていた他、国民党共産党外国侵略勢力戦っているとして自らの行動道義的に正当化できた事、日本都市という消費地域を支配するのが一般的であった事に対し国民党共産党農村生産地域支配した事が国民党共産党有利に作用したとしている。環境破壊としては、前記ウー研究によれば、磨頭区で小麦代えて日本側による米の作付け強制が行われ水の流れ変わり小麦生産激減した事、日本軍による掃討・飛行場建設による畑等の破壊1942年日本軍黄河大橋修理洪水もたらした事(日本軍はその洪水失った分の食糧貯蔵農民からあらたに徴発している)が挙げられている。 作家である劉震雲小説『温故一九四二』によれば1942年から1943年にかけて河南省では水旱湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害旱魃イナゴ発生(蝗害)、および湯恩伯による重税により、300万人あまりが餓死したという。この劉の小説中国語報告文学呼ばれるルポルタージュ乃至ノンフィクション捉える向き日本にはあるが、中国では調査小説という言葉であくまで小説とされている(そのため、小説中の「・・・に調査行った」、「・・・という資料があった」という部分まで含めて、それ自体ではどこまでがフィクションで、どこまでが史実か、分からないことに注意する必要がある。特に、この小説初め出版され1993年は、台湾では李登輝総統国民党政権従来からの反共主義変えることなく民主化に舵をきり始めていた一方中国では前年1992年天皇・皇后陛下訪中が行われるなど日本への反日感情薄らいでおり、また、当時GDP未だ日本の1/10しかなかった中国としては、従来改革開放路線延長線上にある社会主義市場経済政策をとる方針を明確していく中で、台湾国民党国民党軍批判し日本自国側により引き付けようとしたがっていたという時代背景がある。なお、本来の中国語存在する言葉は「日記体小説」という言葉で、日記体裁取った小説という意味であり、魯迅の「狂人日記」等がこれにあたる。)。 劉の小説によれば、この状態が続けば河南省全滅していたが、1943年の冬から1944年の春までの間に日本人河南被災地区に入り軍糧放出して多く人々の命を救ったという。この結果河南省人々日本軍支持し日本軍のために道案内日本軍前線対す後方支援担架担ぎ手を引き受けるのみならず軍隊入り日本軍による中国軍武装解除助けるなどした者の数は数え切れないほどだったとされている。1944年春日本軍河南省掃討決定した一号作戦)。そのための兵力は約6万人であった。この時、河南戦区蔣鼎文司令官河南省主席とともに農民から彼らの生産手段である耕牛さえ徴発して運送手段充てることを強行し始めた。これは農民に耐え難いことであった農民猟銃青龍刀の鍬で自らを武装する兵士武器取り上げはじめ、最後に中隊ごと次々と軍隊武装解除させるまでに発展した推定では、河南戦闘において数週間の内に約5万人の中国兵士が自らの同胞武装解除させられた。すべての農村において武装暴動起きていた。日本軍敗れた中国兵いたるところ民衆によって襲撃惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた。3週間以内日本軍すべての目標占領し南方への鉄道日本軍の手落ちた。この結果30中国軍全滅したとされている。ただし、当時日本資料このような事実報告をしているものは、今のところつかっていない。 また、この事件とは別に1943年9月には、今度日本軍河北省で、黄河合流する大運河衛河」を決壊させており、大量農民とその家族罹災させたという。日本軍臨清付近水かさ高くなって壊れると判断して堤防破壊したとも、堤防脇にある日本軍望楼を守るために北志那方面軍第12軍59師団一大隊長命令により行われた決壊があったとも伝えられる一説には何百万人という農民とその家族罹災し収穫前の畑も住居も1m以上の高さまで浸かったもあり、村人浸かった作物刈り取って食いつないでいたものの、数か月もてばよい方で、寧ろこちらの事件で、1944年旧正月頃には食べるものがなくなり、わが子を人にやる村人出て来たとも伝えられこのため華北流亡する人間大量に出て日本側にとっては図らずも満州華北戦時重要産業必要な苦力得られる要因となったという。

※この「河南旱魃と民衆の離反」の解説は、「黄河決壊事件」の解説の一部です。
「河南旱魃と民衆の離反」を含む「黄河決壊事件」の記事については、「黄河決壊事件」の概要を参照ください。

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