蝗害
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蝗害(こうがい、英: Locust plague)は、トノサマバッタなど相変異を起こす一部のバッタ類の大量発生による災害のこと。
注釈
出典
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蝗害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 06:35 UTC 版)
「チャールズ・バレンタイン・ライリー」の記事における「蝗害」の解説
彼がミズーリ州の昆虫学者となった時期、ロッキートビバッタの大発生が起こった。彼はこの昆虫の習性、過去の発生の状況等を調査し、その行動や移動を予測した。また、対策としてバッタの卵を買い取ることなどを提案、ミズーリ州とミネソタ州ではこれを実施し、一時的にバッタ卵が通貨として流通したとも伝えられる。他の州でも様々な対策が取られたが、多くは彼の指導の元に行われた。彼の活動期以降、ロッキートビバッタの発生は劇的に減少し、ついに絶滅する。これは実際には彼の成果ではない可能性が大きいが、彼の活動を印象づける効果があった。 また、バッタが大規模な移動をするため、個々の州が対策を取っても効果を上げ難いことから、昆虫学者による国家委員会の設立が必要であるとの意見を出し、これが後の国家昆虫学委員会につながっている。
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蝗害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/27 19:02 UTC 版)
蝗害 (こうがい) とは、バッタやイナゴが大量発生して飛来し、農作物などを食い荒らす災害である。「蝗」(イナゴ) の漢字が充てられているが、ワタリバッタによるものも蝗害と呼ばれる。大規模な蝗害を引き起こした種は世界的に10種類以上が確認されているが、北米大陸ではロッキートビバッタの1種のみである。 蝗害を引き起こす種の一覧については「蝗害#種類」を参照 古くはメイン州で1743年から1756年にかけて、またバーモント州では1797年から1798年にかけてロッキートビバッタによる蝗害が確認されている (両州とも大西洋側、つまり北米大陸東部に位置する)。その後19世紀に入ると西部開拓時代を迎え、ロッキートビバッタの生息に適した西方へと農地が開拓されていったことから、農業に与える蝗害の影響は深刻化している。程度に差はあるものの、1828年、1838年、1846年および1855年に大発生が確認されており、西部全域にその影響は広がった。1856年から翌57年、および1865年にはミネソタ州に、また1856年から1874年の間にはたびたびネブラスカ州にも蝗害が及んでいる。 大規模な発生が最後に確認されたのは1873年から1877年であり、コロラド州、カンザス州、ミネソタ州、ミズーリ州、ネブラスカ州を含む広域で、農作物の被害額は1874年の単年のみで2億ドルに上った (2018年の消費者物価指数で換算すると44億ドル超に相当する)。ロッキートビバッタは特にムギなどの穀類を好んだものの、エサとなるのは草や農作物だけでなく、革製品や木材、羊毛なども含まれ、またごく稀なケースでは服を着た人間の背面を襲うこともあった。ロッキートビバッタがエサにしなかったのは、トマトやトウゴマの実、ラズベリーなどごく一部の野菜や果物に限られていた。 翌1875年の大発生は特に「アルバート大群(英語版)」と呼ばれており、ギネス世界記録に登録された数値によると、12兆5千億匹の大群だったと推定されている。なお、2004年に公表された別推計によると、アルバート大群は3兆5千億匹だったとの説もある。証言・分析によると、地上1マイル (約1.6キロメートル) をロッキートビバッタの大群は5日間途切れることなく通過しており、この数値からロッキートビバッタは横110マイル (約177キロメートル)、長さ1,800マイル (約2,897キロメートル) の帯状に群れを成して飛来したと推定されている。「巨大な雲のようでもあり、吹雪のようでもあり、蒸気で陽光を遮っていた」とある農家は証言している。 駆除の方法は多岐に渡っており、火薬を使ったり、塹壕を掘ってロッキートビバッタを焼却処分したり、耕作機の一種である「ホッパードーザー」(hopperdozers) も使用された。このホッパードーザーとは、ブルドーザーのような横長の板を馬の後ろにつけて地面を掻き出し、バッタが飛び上がったところを毒または液体燃料の入った受け皿で捕獲する仕組みである。また、掃除機のような機械で吸い取って駆除することもあった。しかしこれらの駆除方法は効果が限定的であり、被害を食い止めるには至らなかった。ミズーリ州政府所属でロッキートビバッタ対策の第一人者として知られる昆虫学者ライリーは、ロッキートビバッタを塩コショウで味付けしてバターで炒めるレシピを考案した。このレシピは一般に受け入れられたものの、「このおぞましい生物を食してもすぐに腹が減るだけだ」との反応もあった。 1877年のネブラスカ州議会では、16歳から60歳の者は繁殖期に最低2日間は駆除作業に従事することを義務付ける、その名も「グラスホッパー法」を成立させ、違反者には罰金10ドルを課した。同年、ミズーリ州ではロッキートビバッタを駆除した量に応じて懸賞金制度を設けており、1ブッシェル (容積にして約35リットル) あたり、3月には1ドル、4月には50セント、5月には25セント、6月には10セントが支払われた。同様に、プレーリー地帯の他州でも類似の懸賞金制度が採用されている。 ライリーの働きかけにより、連邦議会下院は1877年、ロッキートビバッタの研究を主目的としてアメリカ合衆国昆虫学委員会(英語版)を内務省傘下の政府機関として公式に設立した。当委員会では5年間にわたり、包括的な年次報告書をとりまとめている。初代議長にはライリーが就任したほか、上述のトーマス、アルフェウス・スプリング・パッカード(英語版)、ジョン・ヘンリー・コムストック(英語版)などの識者が委員を務めた。
※この「蝗害」の解説は、「ロッキートビバッタ」の解説の一部です。
「蝗害」を含む「ロッキートビバッタ」の記事については、「ロッキートビバッタ」の概要を参照ください。
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