かいたく‐し【開拓使】
開拓使
開拓使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/09 07:58 UTC 版)
1876年(明治9年)12月頃に冲鷹丸と開拓使所轄の雷電丸の交換の話が出て、冲鷹丸は1877年(明治10年)2月15日午前11時に横須賀造船所で主船局が引き取り、石川島まで試運転を行って午後7時に開拓使へ引き渡された。なお『日本近世造船史 明治時代』では1877年(明治10年)2月5日に開拓使に交付、とされている。2月19日に開拓使から冲鷹丸に海賊対策として8cm砲2門、野戦砲1門の据付が上申され、2月27日許可された。 同年の西南戦争で冲鷹丸は、外の開拓使所属船2隻(玄武丸・矯龍丸)と共に参加した。冲鷹丸は2月17日から6月18日の間に房総半島沖、相模湾などで警備航海を行った。6月19日午後2時に品海を出港、途中で石炭積み込みなどで各地に寄港し、6月30日午後1時兵庫港に到着した。7月3日午前5時兵庫発、伊予三ゲ浜(三津浜港?)、豊後鶴崎、長浜に寄港し、7月8日午後1時佐賀関着。翌9日午前6時に同地を出港し、午後6時から1時間ほど細島港口で発砲を行った。10日に三ゲ浜に寄港、12日正午神戸に到着した。24日神戸、大坂の間を2往復した。8月5日正午に神戸発、石炭積み込みで下田港に寄港するなどし、8月15日午後2時、品海に帰着した。 1878年(明治11年)3月26日、冲鷹丸は北海道・福島湾で暴風に遭い沈没、砲などが失われた。また船長の堀口貞之の外4名が波にさらわれて行方不明になった。
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開拓使
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「北海道炭礦鉄道の客車」の記事における「開拓使」の解説
1880年11月、幌内鉄道の開業にあたって用意された客車の1両で、ハーラン・アンド・ホリングスワース社製の「開拓使」1両のみが存在した。 詳細は、開拓使号客車を参照されたい。
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開拓使
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Clip 榎本農場跡(江別市)の騎馬像。道産子(北海道産馬)をモデルにしているため、馬が小さめになっている。 1872年(明治5年)1月6日、特赦により出獄、親類宅で謹慎する。3月6日に放免となり、同月8日、黒田が次官を務めていた開拓使に四等出仕として任官、北海道鉱山検査巡回を命じられた。 5月末、北垣国道らとともに海路北海道へ向かう。翌月から函館周辺を手始めに日高、十勝、釧路方面の資源調査を行い帰京。石炭隗を開拓使に持ち込んだ札幌在住の早川長十郎の情報を元に石狩炭田に関心を示す。 1873年(明治6年)1月、中判官に昇進。同年1月から3月にかけ、東京の開拓使仮学校で黒田・榎本・ケプロンは地質調査方針策定のために三者会談を行う。榎本は調査を進めるため、黒田がアメリカから招聘したホーレス・ケプロンとともに来道したが、ケプロンに更迭されていたトーマス・アンチセルを再登用しようとした。しかし、別途、ベンジャミン・スミス・ライマンに地質調査を行わせていたケプロンに反対される。同年夏、榎本は再度北海道に行き、熊石(現在の八雲町)の石炭山を調査した後、石狩山地に入り空知炭田を発見、良質な炭層であると分析結果を出した。しかしケプロンは、榎本の調査結果を認めず、「未熟の輩」と誹謗した。 北海道土地売貸規則が制定されると、1873年(明治6年)、早川長十郎に案内された石狩川沿いの対雁(ついしかり。現在の江別市)の土地10万坪、それと小樽(現在の小樽駅周辺)の土地20万坪を北垣国道とともに払い下げを受けた。対雁には「榎本農場」を開き、小樽には「北辰社」を設立し土地を管理した。
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開拓使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 03:02 UTC 版)
1873年(明治6年)5月8日神奈川県を退職し、17日開拓使御用掛・翻訳掛に転じ、同日弁方・写真取扱、9月22日外国諸注文取扱を兼務し、東京出張所で外国人・外国企業との交渉、開拓使博物場の資料管理等を行った。 1874年(明治7年)12月9日の金星の太陽面通過に当たり、旧春日丸乗組員吉田重親の指名で海軍水路寮に出向し、横浜でメキシコ観測隊の通訳、当日は麻布飯倉町観象台で写真撮影を行った。 1878年(明治11年)8月9日幌内・岩内両煤田開採事務係を兼務し、クロフォードによる官営幌内鉄道建設のため、東京で物資の調達を行った。1880年(明治13年)3月24日石狩河口改良係を兼務し、ファン・ヘントによる鉄道沿線の水運計画に関わったが、ヘントの急死等で中止となり、1881年(明治14年)6月23日改良係を解かれた。 1882年(明治15年)2月8日開拓使が廃止されると、開拓使残務取扱所・大蔵省で残務整理を行った。
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開拓使
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1873年(明治6年)に開拓使が函館~青森、函館~安渡(現青森県むつ市大湊)間に汽船弘明丸を就航させ、それぞれ月3往復を運航した。
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開拓使
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戦後まもなく、明治2年(1869年)11月22日に黒田は中山清(せい)と結婚した。樺太でのロシアの圧力が増したため、明治3年(1870年)5月に樺太専任の開拓次官となった。7月から樺太に赴き、現地のロシア官吏との関係を調整し、北海道を視察して、帰京した。10月20日に建議して、樺太は3年も保たないとし、北海道の開拓に本腰を入れなければならないと論じた。 明治4年(1871年)1月から5月まで、アメリカ合衆国とヨーロッパ諸国を旅行した。旅行中、米国の農務長官ホーレス・ケプロンが黒田に会って顧問に赴くことを承諾し、他多数のお雇い外国人の招請の道を開いた。帰国後、10月15日に開拓長官東久世通禧が辞任した後は、次官のまま開拓使の頂点に立った。明治7年(1874年)6月23日、陸軍中将となり、北海道屯田憲兵事務総理を命じられた。同年8月2日、参議兼開拓長官となった。黒田は榎本ら箱館で降った旧幕臣を開拓使に登用した。 黒田はケプロンの献策にもとづき基盤整備事業を起こしたが、たちまち支出超過を招いた。これに苦慮した黒田は、明治6年(1873年)に事業を縮小し、即効性を求めて産業振興に重点を移した。
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「開拓使」の例文・使い方・用例・文例
- 開拓使
- 開拓使という行政機関
開拓使と同じ種類の言葉
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