開拓事業の本格化と完成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 19:42 UTC 版)
大日本帝国は、昭和20年(1945年)8月、ポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した。戦争が終わっても食糧事情はわるく、多くの国民は飢えていた。農家は戦争によって働き手を失い、物資不足や流通機能の低下により肥料や薬剤もほとんど使わず略奪農業を続けたので昭和20年の米の収量は平年作の半分を越す程度でしかなかったのに対し、米の配給を受ける人口は戦災による都市産業離職者や海外からの引揚者などで急増したからである。そのため田沢疏水開墾は、米の増産政策、戦争中の強制疎開、海外引揚者、復員者、二・三男の就業対策として、また戦中期に荒廃した国土開発の一環として、一躍時代の脚光を浴びることとなった。 昭和21年(1946年)から翌年にかけては多数の引揚者・復員者・疎開者が開墾地に入植した。出身は地元秋田県のほか、当時食糧難であった東京方面など他県からの入植者もおり、満洲からの引揚者もいた。遠く鹿児島県から入植した人もいた。昭和22年(1947年)、農地開発営団が閉鎖され、全事業は農林省(現農林水産省)に引き継がれた。 戦争直後の人力による開墾は各種証言にもあるとおり、難渋をきわめた。ただし、それでも日本全体が貧しかった時代にあっては純農村の方が相対的に都市部より豊かであったという証言もある。入植者はそれぞれ9開拓組合に属し、真崎野地区25戸、神代地区49戸、新興地区22戸、太田地区79戸、千畑地区89戸、作山地区16戸、六金地区29戸、明南地区5戸、天神堂地区9戸の合計323戸におよんだ。砂礫地は「石との戦い」であり、耕地化するまでには土中の礫や石を除去しなくてはならなかった。また、疏水完成前の主作物は大豆であり、近接する既存の農家と白米を交換し、さらに夜なべ仕事をしなければならなかった。新開地は未だ電化されていない地域が多く、開墾の障害となる松の木からヤニを抽出してそれを燃やし、灯明とした。そのため、開拓者は当時「松ヤニの臭いがする」といわれたそうである。 除毒工事の方は昭和20年早々に着手された。昭和23年(1948年)、国による除毒工事が竣工し(その時点での田沢湖のph値は5.0)、翌昭和24年には県営の除毒工事が着工している。 用水工事は、昭和22年に右岸水路取水施設が完成した。開拓者たちは水利施設の建設にも従事した。田沢疏水の初通水は昭和26年(1951年)であり、沿線の各地は喜びに沸いた。昭和26年から28年にかけて本格的な水田化が始まったが、表土(礫)と底土を逆転させる作業は困難をきわめ、ベントナイトを使用した漏水防止のための床締めの作業にも大きな労力を費やした。 昭和31年(1956年)からはブルドーザーによる開墾がおこなわれ、多くの入植者をして「もっと早くブルが来てくれたら」と嘆息せしめるほどに開田は効率よく進められるようになった。昭和38年(1963年)に疏水工事が完了し、新規入植者約400戸と沿線の増反した既存農家約5,300戸が受益者となった。昭和12年に着工された田沢疏水開拓建設事業は、26年間という長い歳月と10億円余りの巨費を投じてついに完成した。完工式は、その前年の昭和37年(1962年)9月18日に秋田県立角館高等学校体育館でおこなわれている。 受益面積は玉川左岸が1,971ha、右岸391haであった。悪名高き玉川毒水と開拓者に「ジャングルの原始林」と呼ばれた荒野の開拓地は広大な田園風景に溶け込む散居村と屋敷林へと変わり、同時に、これによって多くの農家が経営規模拡大を果たした。
※この「開拓事業の本格化と完成」の解説は、「田沢疏水」の解説の一部です。
「開拓事業の本格化と完成」を含む「田沢疏水」の記事については、「田沢疏水」の概要を参照ください。
- 開拓事業の本格化と完成のページへのリンク