開拓伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:58 UTC 版)
島の北西部の母島部落には鎌倉出身の山伏の開拓伝説 (cf.) が、南西部の弘瀬部落には島祖といわれる三浦則久一族の開拓伝説 (cf.) がある。弘瀬の三浦家は、関東武士団の一つで相模国の三浦半島を本貫とする三浦氏の一派と考えられる。本貫の三浦氏は宝治元年6月5日(1247年7月8日)に起こった宝治合戦(三浦氏の乱)に敗れて鎌倉を追放されているので、歴史上の整合性は高い。これら2つの伝説が事実を反映しているとすれば、いずれにしても沖の島に人が住み始めたのは鎌倉時代の前期か中期であった。 ただし、より古い平安時代の妹兄島伝説なるものもあり(※『今昔物語集』出典。cf.)、この時代にはすでに定着民がいた可能性も無いわけではない。間違いなく脚色されている妹兄島伝説のどこかに最初期の開拓者たちの事実が含まれているのか、それともそのようなものは無く全て架空の創作物語なのかは、今日まで伝えられた事柄だけで判断することができない。そのため、妹兄島伝説は絵空事同然という見なされ方をしている。 また、同様の伝説は『今昔物語集』だけでなく、『宇治拾遺物語』にも収録されており、非常に似通ったものとなっている。他にも昭和45年の調査で『沖ノ島のはじまり』が採取されている他、『ハンガイ森の兄妹』についても類似性が確認されている。 弘瀬側島民のアイデンティティとしては、古来、弘瀬の一般島民は「『ミウラさん』率いる家臣団の末裔である」という認識で一致している。そのようなことで、戦後(第二次世界大戦後)に至るまで、弘瀬側島民の間での言い伝えは「平家の子孫」として誇りをもつことで苦しい漁民生活における精神的支柱となることが少なくなかった。
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