開拓以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 09:39 UTC 版)
桔梗ヶ原の地名が登場する文献としては諏訪大社の権祝たる矢島氏の『矢嶋文書』が最古であり、南北朝時代の1355年(正平10年)に桔梗ヶ原で合戦があったことが記されている。 江戸時代、中山道が開通し、塩尻宿・洗馬宿の両宿場町が繁栄すると、その中間に位置する桔梗ヶ原は、『塩尻甚句』に「行こか塩尻 帰ろか洗馬へ ここが思案の桔梗ヶ原」と詠われた。桔梗ヶ原の周辺には床尾・平出・大門・高出・野村・吉田・原新田・堅石・郷原という9つの村があり、桔梗ヶ原の中でも各村に近い部分を内野(うちの)、村から遠い原野の中央部分を外野(そとの)と呼んでいた。当時は入会の草刈場として利用され、中山道の沿線であったことから馬の飼料を得るには格好の場所であった。その一方で、密かに隠田を造る者もいた。1700年(元禄13年)、松本藩は桔梗ヶ原の開拓を命じたが、入会権を持つ村々が草刈場が減ってしまうとして反対したため中止となった。1742年(寛保2年)になり、天領塩尻陣屋代官・山本平八郎親行が桔梗ヶ原を含む筑摩郡・安曇郡54か所の開発を計画したが、松本藩および両郡の農民らによる幕府勘定奉行神尾春央への直訴の結果、沙汰止みとなった。1830年(文政13年)には木曽川を水源とする大規模な水田化計画が持ち上がったが、間もなく立案者の死去によって頓挫してしまった。
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