旧木ノ俣用水とは? わかりやすく解説

旧木ノ俣用水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 20:03 UTC 版)

木ノ俣用水」の記事における「旧木ノ俣用水」の解説

旧木ノ俣用水は、谷底流れ那珂川右岸水無川熊川左岸挟まれた、那須東原位置する黒磯地域(旧・黒磯市)を流れ用水路である。 水利の便が悪く不毛の荒野であった那須野が原用水路開削する試み明治期那須疏水以前にも記録があるが、旧木ノ俣用水はその一つ江戸時代中期1763年宝暦13年)から1765年明和2年)にかけて穴沢集落によって開削された穴沢用水起源としている。木の俣川から穴沢集落までの開削には、岩肌トンネルをくり貫いた急斜面水路掘ったりといった、小さな集落にとっては困難な工事伴ったであろう推測されており、これが成功した際には、村民たちは3日3晩渡って祝宴催し喜び表したという。これ以降先人偉業讃える伝統行事昭和半ばまで続けられ取入口行われた水神祭様子描いた絵図那須塩原市指定文化財として現存している。この用水路その後幾度も整備延長繰り返しており、特に文化年間1804年 - 1817年)にはこの地域任されていた代官山口鉄五郎によって下流まで延長された際には、210haの水田潤す灌漑用水として整備され山口堀と称された。しかし、このときの整備計画通り成果出せず、水田用水路次第廃れていき、幕末にはほとんど流れていない状態であったとされる明治期にも改修が行われているが、特に山口堀として延長され区間本格的な改修は、那須野が原一帯潤す大規模な用水路である那須疏水開削前後する1884年明治17年)から翌年にかけて行われた1891年明治24年)から翌年にかけては大掛かりな流路変更行われているが、少なくともこの頃には木ノ俣用水という名称が使われるようになり、1893年明治26年)における新木ノ俣用水開削後は旧木ノ俣用水と呼ばれるようになった1967年昭和42年)から1994年平成6年)の間に行われた国営那須野が原開拓建設事業においては新木ノ俣用水那須疏水蟇沼用水と共に、旧木ノ俣用水も幹線水路統合老朽化した一部水路舗装化を施されている。現在、穴沢集落から那須疏水交差するまでの流路戸田用水路とも呼ばれており、その一部戸田調整池那須疏水へと合流している。那須疏水交差して以南流路那須疏水第二分水流路重なっており、この地域のうち明治期開拓以前から開かれていた地域では、かつては那須疏水水利権を得ることができなかったが、国営那須野が原開拓建設事業によって流路統廃合進んで以降は旧木ノ俣用水の水路はあまり使われなくなっており、古い流路一部那須疏水排水路などに転用されている。

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