文化年間
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阿仁迺澤水(アニノサワミズ) - 1804年(文化元年)阿仁鉱山方面の写生画集。文章は現在未発見となっている。また、絵にも注釈がないものが多い。二ツ井町、合川町、森吉町、阿仁町の絵図からなっている。 恩荷奴金風(ヲガノアキカゼ) - 1804年(文化元年)8月14日に久保田の應供寺を出発し土崎に一泊、そこから天王で東湖八坂神社で一年の行事を記録し八郎潟に舟を浮かべて月を観賞する。続いて船越から、脇本村を通り金川の羽立に至り、船川を経て寒風山に登る。引き返して、脇本城跡を通り船越から天王に帰った。24日には再び男鹿半島に渡り、脇本城跡の天満宮に参拝、船川、椿の浦を通り小浜で一泊し、門前から日積寺を参拝し寺の縁起を聞く。南磯から引き返して、石清水、賀喜石、蘇武塚を見学し天王に戻る。9月には天王を出発し、船越から払戸、角間崎を経て(若美町)鵜の木で宿泊し、滝の頭、芦崎を経て、(八竜町)浜田で一泊し9月21日に能代に至るまでの日記。この冬は能代に滞在していることを記している。 美香弊乃譽路臂(ミカベノヨロイ) - 1805年(文化2年)7月(大館市)櫃崎村や出川の風俗を描き、(合川町)川井、(鷹巣町)上舟木で一泊し、明利又で比内浅利氏の古碑を見て、山を越え(森吉町)様田の吉田氏の家に泊る。吉田氏に誘われて森吉山にる。一の腰側から登り森吉山山頂を初めて極めた後、栩木沢に降りる。戸鳥内で畑から出土した人の顔のような土器を見る。これを真澄は鎧と解釈して本書の銘にしている。中村では5つの不思議な石を見ている。打当、戸鳥内、鳥越と宿をとり、マタギの集落である根子で祭りを見て、萱草、荒瀬から銀山で宿を取り、水無から舟に乗り米内沢を経て川井につく。閏8月に川井から舟にのり(二ツ井町)薄井村の秋林家に宿を取る。仁鮒では銀杏山神社の銀杏の古木を記録し、切石では塩の井戸を見て兜神社に参拝する。米代川を渡り鎧神社に参拝し、比井野の清徳寺で顕彰碑を筆写し、9月には(合川町)沢羽立から(二ツ井町)田代で一泊、田代の風俗を記録し、田代潟の紅葉を見物、鍵懸(かんがけ)の大ブナの木を見て、千の台、鸚鵡石、小掛、仁鮒を通り米代川を渡って再び薄井村の秋林家に宿を取る。 霞む月星(カスムツキホシ) - 1806年(文化3年)能代に滞留し、2月21日より3月26日まで歌の友人と共に機織を経て、檜山の浄明寺に到着する。住職らと付近の茂谷山に登り鶴形村に一泊する。鶴形村から朴瀬村に米代川を越えて移動し、近辺に築法師(つくほうし)という集落を見て、その名の由来が安倍貞任の子で津軽藩藤崎に逃げた高星丸の子である月星がこの集落に隠れ住んだ伝説によることを知る。向能代を経て、能代に戻る。3月小友沼を経て檜山に着き、古四王神社に参拝する。桜を見ながら(山本町)達子まで移動し、長面の近藤家に着く。宮の目でうば桜を見て、小町では小野小町の昔を偲んだ。(琴丘町)落合で房住山の昔話を記録する。上岩川を通り、師走長根で松ヤニを採っている人に出合う。十八坂を越え浦城跡を記録し、(五城目町)浦横町に宿を取った。ここから引き返し高丘山に登り、真坂から天瀬川を通り鹿渡で火災に遭遇、森岡から檜山を通って能代に戻った。さらに、能代から米代川を渡り、丑首頭(うしのくびと)で桃や桜の花を見た。丘の上に登ると遠近に花々が咲いている様子が見え、また遠くに築法師の集落が見えた。季節の移り変わりのうちに築法師を見てこの本の銘としている。仁井田で倫勝寺の舟繋ぎの木を見て、小友沼で休み、檜山の天神様の祭りを見て、霧山に登り、浄明寺に泊りまた能代に帰った。 雄賀良能多奇(オガラノタキ) - 1807年(文化4年)3月、(八森町)岩館の笛滝を海から眺め、三内に上陸する。修験宅蔵院を訪ね、白滝を訪れ滝の上からスミレを写生する。本館では武田氏の悲話を聞き位牌を眺め涙した。新屋敷では中国まで漂流した吉太郎と会って話を聞く。(峰浜村)目名潟に泊り雄山権現では珍しい獅子頭と川を渡った所にある板碑を記録する。水沢川上流の手這坂を見て「桃源郷」と評価し、大久保台、鳥形、強坂、上強坂、横内、河内、石川を過ぎ、(能代市)常磐、わかし湯で賑わう大柄を経て、大柄の滝(おおがらのたき)を遊覧しこの本の銘とした。(二ツ井町)岩坂で一泊し、梅内の和光院を見て、切石で米代川を渡り、富根で昔は仁井田、鶴形、塩千田が皆海であったという話を聞いて能代に着く。5月能代から金光寺を経て豊岡の藤の井権現に参拝する。女達子から長面の長伝寺に泊り、風俗を記録する。さらに、鹿角郡の温泉に行こうと、能代を旅立った、(鷹巣町)では般若院英泉のこと、大館では蝦夷地警備のため兵士で一杯であったことを記録している。さらに長木川をさかのぼり、小雪沢の関所を越え、雪沢から鹿角郡(狭布郡)に入る。 錦木(ニシキギ) - 1807年(文化4年)5月鹿角郡に入り前半四分の一が鹿角郡毛馬内付近をめぐった夏の日記の断片や錦木塚に関する他人の詩歌六編、錦木塚周辺の図絵からなっている。後半は主に津軽藩内の絵図からなっている。鹿角の染物や鍛冶、良い酒があることを記録し、毛馬内には月3回市が立つ豊かな町であることを記している。月山神社に詣でようとしたところで終わっている。 十曲湖(トワタノウミ) - 1807年(文化4年)8月十和田湖に遊んだ紀行文。1910年7月に石川理紀之助によって仙北郡西明寺村の齋藤邸で発見された。8月、小坂町から鳥越の疫病除けのまじないを見て藤原に到達、七滝明神に参拝し、級の木(しなのき)長根で十和田湖を見た。鉛山鉱山に宿泊、休屋で南祖坊と八郎太郎の物語を聞く。南祖坊を祀る十和田神社に参拝し、休屋の山小屋でキノコ取りのマタギ達と一泊し、発荷峠を越え、大倉を経て、鴇(ときとう)に一泊し毛馬内まで帰った。9月には、大湯を経て菷畑の家に泊る。止滝、中滝、銚子の滝を巡り、再度紅葉の十和田湖を見る。 千代の色 - 1809年(文化6年)1月から3月の日記。『菅江真澄全集』では「笹ノ屋日記」として翻刻されている。 夷舎奴安装婢(ヒナノアソビ) - 1809年(文化6年)夏から秋にかけての書。南秋田郡五城目町周辺で付近の名所旧蹟を遊覧した。今戸の浦の実相院で多くの板碑を見て、五城目では石仏を見た。詳細にここで『石地蔵大士の記』を作っている。また、各地の盆踊りの歌詞を記録し、番楽舞の様子や歌詞や使われている面を記録している。また、天瀬川で織田信雄の旧蹟を訪ねた。 鄙廼一曲(ヒナノヒトフシ) - 1809年(文化6年?)これまでの旅で集めた民謡の記録。記録されている歌は、田歌や山歌、船歌、念仏踊歌をはじめとする当時の庶民によって歌われた民謡である。 氷魚の村君(ヒオノムラギミ) - 1810年(文化7年)正月ごろの日記、南秋田郡を旅した日記。(五城目町)谷地中から、(井川町)今戸に移動しそこから八郎潟の冬の氷下網漁を記録している。その後、(琴丘町)鯉川からも氷下網漁をみている。この書から「菅江真澄」を名乗り始めた。 恩荷能春風(オガノハルカゼ) - 1810年(文化7年)3月20日から5月上旬の日記。五城目の谷地中を出て(八郎潟町)小池、(琴丘町)天瀬川、(八竜町)鵜川、芦崎と移動し、芦崎では姥御前の縁起を聞いた。一旦能代に入り以前から世話になっていた伊東氏の墓に詣で、また芦崎を経て大谷地、(若美町)申川、(男鹿市)谷地中まで移動する。続いて、真山集落から男鹿真山、男鹿本山に登り真山神社に参拝した。神社では薬師の祭りで多くの老女が夜通し集まっていた。西水口に宿泊し大滝を見て、一ノ目潟や二ノ目潟を見て、また水口に戻った。北浦の日吉神社で縁起を聞き、松菊舎に泊る。松菊舎の案内で、染川城址、下鶴田の五輪台を見て、安善寺を見る。松菊舎から鹿小田、地蔵坂を通り湯本で宿をとり温泉に入り、湯の尻まで移動する。 小鹿の鈴風(オガノスズカゼ) - 1810年(文化7年)5月中旬から7月下旬の日記。男鹿半島の北浦を出発し野村、湯の尻に移動、北磯、平沢まで移動する。北磯では山田の田植え歌や五月飯の習俗を記録した。畠崎が玄慧法師の出身地であることを聞き法華経を書いた石塔を見て、水島に渡り、畠崎から戸賀につき、浜塩谷、浜中、塩戸につくまでの日記。宮嶋などの奇景を描いている。 牡鹿の嶋風(オガノシマカゼ) - 1810年(文化7年)7月13日から7月17日までの日記。男鹿半島の塩戸を舟で出て、加茂、青砂の盆踊りの風俗や風景を見ている。そこから船に乗り島を巡って白糸の滝、大桟橋、小桟橋の奇巌を見つつ、潮瀬から赤神、赤城の洞窟を探り、6年ぶりに門前村に至る。日積寺に詣で寺の縁起を記録した。 牡鹿の寒かぜ(オガノサムカゼ) - 1810年(文化7年)7月18日から次の年の2月1日までの日記。門前村を出て脇本に着く。脇本では天満宮に詣で、真山神社への参拝の様子を聞く。9月27日に野村で男鹿大地震に遭遇する。島田にしばらく滞在し大地震前後の状況を詳細に描写している。10月安全寺に移動し、真山神社に参拝、三森に宿泊、中石の洞昌寺では地震で寺が崩壊した後に、仮の庵に住む住職と和歌を交換した。(若美町)宮沢の畠山家ではなまはげの奇習を絵図と長文で記録している。 のきの山吹 - 1811年(文化8年)春から夏にかけての紀行文。南秋田郡金足村小泉近辺に居を定め、豊川や飯田川町、下新城、五城目、仁鮒の古跡名勝を訪ね風俗を書き記したもの。ここで奈良家に出入りし、久保田藩の学者である那珂との交遊も始まっている。弥生の末近くに、山吹を折って家々の軒を葺く地区の風習を見てこの冊子を命名した。 勝手能雄弓(カツデノヲユミ) - 1811年(文化8年)8月那珂道博や江田、広瀬などの友人と、勝手神社(秋田市太平黒沢旭川)に参拝した紀行文。南朝の忠臣藤原藤房の旧蹟などを詳細に考証している。『花の出羽路』に収録されている。 しののはぐさ - 1811年(文化8年)以前から書きためた随筆をまとめたもの。全部で34篇からなる。 水の面影 - 1812年(文化9年) 秋田市寺内地区を巡り、秋田城などの周辺の旧蹟などを紹介した文章。能代市の安濃家に真筆本上巻が保存されていることを、菅江真澄研究家の内田武志が発見、1946年に借覧して写真を撮り、全文を写し終わってまもなく返却したが、その後1949年の能代大火で真筆本は焼失した。下巻は不明である。 月廼遠呂智泥(ツキノオロチネ) - 1812年(文化9年)春から南秋田郡寺内村付近を往来していた真澄が、(秋田市太平)目長崎から7月16日に那珂道博他の歌の友達6人と連れだって野田口から太平山に登り、山上の月を眺めた紀行文。オロチネとは太平山の別名。雨の夜であったが山頂で待っている間に雲の中から月光がほのかに照り輝いたのを喜び合っている。『花の出羽路』に収録されている。 雪能袁呂智泥(ユキノオロチネ) - 1812年(文化9年)雪に覆われた太平山とその麓の写生。 花の出羽路の目 - 1813年(文化10年)久保田藩に提出した、地誌編纂の企画書。数年間の内に書いた日記をまとめたもの。 勝地臨毫秋田郡 - 1813年(文化10年)花の出羽路秋田郡の図絵にあたる部分。旭川、手川、新藤田、濁川、添川、松原、藤倉、仁別、上新城、外旭川などの絵。4巻83図からなる。 勝地臨毫河辺郡 - 1813年(文化10年)1巻8図からなる。仁井田、上北手、下北手などの絵。 雪の出羽路雄勝郡 - 1814年(文化11年)真筆本は失われ、草稿のみが残されている。湯沢市や雄勝郡の地誌。湯沢市の中心部や旧明治村、旧田代村の記述がない。 比良加の美多可(ヒラカノミタカ) - 1814年?(文化11年)雪の出羽路雄勝郡の草稿の一部をまとめたもの。(増田町)真人山の伝説と、そこに伝わる鷹についての伝説、こしべの沼伝説、観音寺の伝説、正平寺の縁起などからなる。 勝地臨毫雄勝郡 - 1814年(文化11年)7巻100図からなっていたが、院内銀山などの図は削除され92図が藩に献納された。主に秋田県県南の絵図。 駒形日記 - 1814年(文化11年)8月に駒岳(栗駒山)を巡った日記。(東成瀬村)桧山台の高橋家を出て朴木台という萱原を進む。足倉山(1083m)を右方に見ながら進むと、赤滝という茶褐色の滝がある。さらに小こおろぎ坂、大こおろぎ坂という険しい山道を進む。大谷地という湿地帯をさらに進み赤川という石が全て黄ばんでいて、水も色づいている川を渡る。本自体は未発見だが、『雪の出羽路雄勝郡』の草稿に断章が残されていた。 高松日記 - 1814年(文化11年)9月の紅葉が素晴らしいころに種苗池沢を登る。さらに(皆瀬村)板戸から南西に向かい山を越す。中山を過ぎ(湯沢市)高松荘の坊沢(坊ヶ沢)につく。三途川で昼食をとりさらに進むと道祖神や女陰の形をした石が沢山置かれていた。泥湯川、川原毛川、桑野川の流れが一つになって三津川になっている所につく。さらに進み、川原毛地獄につき、硫黄を採る人の頭の小屋に泊る。そこでは、岩手や宮城、秋田の方言が混じっていることを記録している。夜、雪が降り、それが朝になって溶けたころに出発する。つるはしで硫黄を採っている様子や、温泉の噴出する音を記録し、泥湯温泉に到着する。既に湯治の季節は終わっており小屋は壊されていたが、浴槽や打たせ湯の施設は残っていた。山を下り、桁倉沼を見てその由来を記録する。苔沼や螺沼を過ぎて上新田村に着く。上新田村では足が痛むので1日休み、次の日に外沢、若畑を過ぎ板戸村に至り宿を取る。これは未発見本の『霞の高松』からの抜粋で、『雪の出羽路雄勝郡』の草稿に記述が残されていた。 花のしのゝめ - 1815年(文化12年)3月ごろに久保田川反の能登屋山本氏の家を早朝に出て、久保田城東側で五丁目橋から桜を見始め、亀の丁より明徳館の前に出て手形方面に入った。さらに、八橋村を通り実鏡院の花を見て北の丸に入り、その日の朝のうちに近辺から花を買いに来る人々に混じって帰ったわずか数刻の記録。歌を交えた雅文調となっていて、久保田藩主佐竹義和の仁政の逸話を記している。 久保田の落穂 - 1815年(文政12年)秋田蘭画の作者である田代忠国に上野の別邸の花見に誘われる。随筆集。古河古松軒の『東遊雑記』を読み、「久保田藩をことさら悪く描写し、亀田藩をことごとく褒めている。何か気に入らないことがあったのだろうか。書物は長い間残るものだから、怒りのままに非難するとは軽率だ」と書いている。 菅江真澄翁画(スガエマスミオウガ) - 1817年(文化14年)前半の2丁4図には花輪の図絵が記載されている。後半の5丁には(鷹巣町)小ヶ田から現れた埋没家屋と、発掘品が描かれている。 道の夏くさ - 1817年(文化14年)の夏、本誓寺住職の是観、西勝寺住職公教らで詠み合った和歌を収録している。 おがたのつと - 1818年(文政15年)8月、寺内から土崎を巡り、(秋田市上新城)石名坂の竜泉寺に参拝し、(秋田市下新城)中野の大竜寺を参拝する。これ以降は無くなっている。大潟村の湖東地区を探索したものと考えられる。
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文化年間(1804年 - 1818年)
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場所番付四股名成績備考1804年(文化元年)3月 西関脇 山颪(大綱) 6勝1敗1分1預 9日間で終了。大綱は東小結で6勝1敗1分1無勝負、直接の取組では山颪をくだしている。 1804年(文化元年)11月 西大関 雷電 8勝1敗1休 1805年(文化2年)2月 西大関 雷電 10戦全勝 1805年(文化2年)10月 西大関 雷電 9勝1敗 1806年(文化3年)2月 東大関 大木戸 5戦全勝 江戸大火(文化の大火)のため、5日間で打ち上げ。 1806年(文化3年)11月 西大関 雷電 9勝0敗1預 1807年(文化4年)2月 西大関 雷電 8勝0敗1預1休 1807年(文化4年)11月 西大関 雷電 8勝0敗1預1無勝負 1808年(文化5年)4月 東大関 柏戸(雷電) 7勝0敗1分1無勝負1休 雷電は西大関で7勝0敗1無勝負2休、直接の取組は無勝負。両者優勝相当と扱われる場合もある。 1808年(文化5年)10月 東大関 柏戸(雷電) 9勝1敗 雷電西大関で9勝1敗、直接の取組では柏戸に勝つ。 1809年(文化6年)2月 西大関 雷電 8勝0敗1預1休 1809年(文化6年)10月 東大関 柏戸(雷電) 7勝1敗2休 雷電は西大関で7勝1敗2休。 1810年(文化7年)2月 西大関 雷電 9勝0敗1無勝負 1810年(文化7年)10月 西大関 雷電 7勝1敗1分1休 1811年(文化8年)2月 西関脇 玉垣 7勝1敗2休 1811年(文化8年)11月 東前1 江戸ヶ崎 7勝1敗1分1無勝負 1812年(文化9年)4月 西前5 越ノ海(頂) 4勝0敗1分 のちの大関玉垣、頂は東前頭6で4勝0敗1分、直接対戦は引き分け。この場所は5日で打ち上げ。 1812年(文化9年)11月 東前4 頂 7勝2敗1分 1813年(文化10年)2月 東前1 柏戸 7勝1敗1分1無勝負 この場所から頂より改め。鳴滝は西前頭4枚目で7勝1敗2休。 1813年(文化10年)11月 西前1 柏戸 7勝1敗1無勝負 1814年(文化11年)4月 東前2 揚羽(柏戸) 7勝1敗1分1休 柏戸は西2枚目で7勝1敗2休、両者優勝相当とされる場合も。 1814年(文化11年)11月 西大関 玉垣(柏戸) 7勝1敗1預1休 柏戸は東関脇で7勝1敗1分1預、直接の対戦は預り。 1815年(文化12年)3月 東大関 柏戸 7勝1敗1無勝負1休 1815年(文化12年)11月 東大関 柏戸(雲早山) 6勝1敗3休 雲早山は東前頭4で、7勝2敗1無勝負。 1816年(文化13年)3月 東大関 柏戸 7勝1敗 8日間で打ち上げ。 1816年(文化13年)10月 東大関 柏戸 9勝0敗1無勝負 1817年(文化14年)正月 西関脇 鳴滝 6勝1敗1分1無勝負 1817年(文化14年)10月 東大関 柏戸 6勝1敗1預2休 鳴滝は西関脇で、6勝1敗1分2休。 1818年(文化15年)2月 西大関 玉垣 7勝0敗1無勝負2休
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