文化年間の落橋事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:28 UTC 版)
詳細は「永代橋崩落事故」を参照 架橋から20年ほど経った頃、財政が窮乏した江戸幕府は享保4年(1719年)に永代橋の維持管理を諦めて廃橋を決定する。しかし町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。町方は、橋の通行料を取り、また橋詰にて市場を開いて収益を上げるなど費用を工面して維持に努めた。 文化4年8月19日(1807年9月20日)、深川富岡八幡宮で12年ぶりの祭礼日(深川祭)が行われた。久しぶりの祭礼に江戸市中から多くの群衆が橋を渡って深川に押し寄せた。ところが、詰めかけた群衆の重みに橋が耐え切れず、橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ちた。後ろからの群衆は崩落に気が付かず続々と押し寄せ、崩落部分から雪崩をうつように転落、死傷者・行方不明者を合わせると実に1400人を超える大惨事となった。これは史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について、大田南畝が下記の狂歌や『夢の憂橋』を著している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼 古典落語の『永代橋』という噺もこの落橋事故を元にしている。南町奉行組同心の渡辺小佐衛門が、刀を振るって群集を制止させたという逸話も残っている。曲亭馬琴は『兎園小説』に「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引抜きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戻りしとぞ」と書いている。 落橋事故後、交通の要衝としての橋の維持に幕府も理解を示し、再び架橋された。
※この「文化年間の落橋事故」の解説は、「永代橋」の解説の一部です。
「文化年間の落橋事故」を含む「永代橋」の記事については、「永代橋」の概要を参照ください。
- 文化年間の落橋事故のページへのリンク