文化庁による解説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 22:25 UTC 版)
遺跡は那珂川の支流、箒川左岸にある喜連川丘陵端部に位置している。従来「萪国私印」(1954年〈昭和29年〉重要文化財指定)の出土、古瓦の散布、土壇状遺構の存在などから梅曽廃寺跡と呼称した場所である。 1967年(昭和42年)から行なわれた発掘調査の結果では、礎石をともなう建物遺構、掘立柱建物など30棟以上の遺構が検出されている。遺跡の範囲は方2町と考えられ、そのほぼ中央に東西2間・南北6間、柱間15尺の大規模な建物を中心に倉庫など各遺構が整然と配列されている。遺跡の時期は、出土古瓦などから奈良時代と考えられるが、この性格については、なお不明な点が多い。しかしこの地は、国の史跡侍塚古墳(1951年〈昭和26年〉指定)を中心とした大小の古墳群集地であり、那須国造碑(1952年〈昭和27年〉国宝指定)の所在などの歴史地理的環境を考慮し、きわめて官衙的色彩の強い遺跡といえる。
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