文化の大火
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文化の大火(ぶんかのたいか)とは文化3年3月4日(1806年4月22日)に江戸で発生した大火。
明暦の大火、明和の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる。丙寅の年に出火したため、丙寅の大火とも呼ばれる。通称車町火事・牛町火事[1][2]。
経過
出火元は芝・車町(現在の港区高輪2丁目)の材木座付近。午前10時頃に発生した火は、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼。折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、そこから京橋・日本橋の殆どを焼失。更に火勢は止むことなく、神田、浅草方面まで燃え広がった[1][2]。
被害
翌5日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に530町に及び、焼失家屋は12万6000戸、死者は1200人を超えたと言われる。このため町奉行所では、被災者のために江戸8か所に御救小屋を建て炊き出しを始め、11万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を与えた[1][2]。
この大火のため大相撲の文化3年2月場所は5日目で中断に追い込まれている[3]。
関連項目
出典
- ^ a b c 江戸時代の大火(一般財団法人消防防災科学センター)
- ^ a b c 江戸三大大火(東京消防庁)
- ^ 酒井忠正『日本相撲史 上巻』(株式会社ベースボール・マガジン社)218頁、昭和31年6月1日発行、発行所:財団法人日本相撲協会、発行者:出羽ノ海秀光・池田恒雄
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