日蘭関係におけるドゥーフの貢献
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「ヘンドリック・ドゥーフ」の記事における「日蘭関係におけるドゥーフの貢献」の解説
ドゥーフの祖国オランダは、フランスによって倒されたことにより、日本と直接の貿易が出来なくなった。そのため、ドゥーフ達長崎のオランダ人の立場は微妙な物となった。鎖国政策を採っている日本の立場に立てば、利益を生み出さない外国人を国内に留めておく理由がないからである。 ドゥーフやオランダ東インド会社は知恵を絞った結果、ヨーロッパの戦争からは距離を置き中立の立場を取っていたアメリカ合衆国の船に目を付けた。アメリカ船をオランダ船に見せかけ、貿易の代行をしてもらうことによって、何とか細々と日蘭貿易を続けることに成功した。 長崎のオランダ人は、本来生活必需品をオランダから送られる物資に頼っていたが、本国が消滅している以上、もはや本国からの援助は期待できなかった。ドゥーフは許可を得て長崎市中を出歩いて、日本人との友好に務め、日本の好意を得て生活物資を日本から「借金」という形で援助して貰うことで、この危機を切り抜けた。ドゥーフの所蔵している本を、幕府や長崎奉行が相場以上の値段で買い取るなど、日本側も祖国を失いながら祖国の矜恃を保ち続けるドゥーフには同情的であった。幕府からの命令で、オランダ人の生活費は長崎会所が払っていた。西洋の食べ物が来ず、ドゥーフ自身手元のノエル・ショメルの辞典からビールを作った。 この時期も日蘭関係が維持されたのは、ドゥーフの努力の賜と言っても過言ではない。 ヨーロッパの戦争でオランダ船の来航が絶えていた1812年から、フランソワ・ハルマ編纂の蘭仏辞書をもとに、日本語通詞を雇って蘭日辞書の編纂に着手し、ドゥーフ離日後も作業が続けられた。1833年(天保四年)に完成したこの辞書は『ドゥーフ・ハルマ』、『長崎ハルマ』と呼ばれ、蘭学研究の一助となった。 江戸を3回訪れた。江戸では長崎奉行とともに上巳の定例の将軍謁見の儀式に参加した。儀式の後将軍付きの医者と天文学者が訪れてきて多くの質問を受け、難しく答えられないものもあった。また天文学者の高橋重賢と親しくなった。親しくなったオランダ語を解する日本人にオランダ語のニックネームを与える事があり、中津藩藩主奥平昌高にはFrederik Hendrikと名付けた。江戸へ向かう最中には富士山の山頂で昼食を取った。また1806年に江戸で文化の大火にまきこまれた。 1808年から本木庄左衛門ら6人の日本人にフランス語を教えた。 自著Recollections of Japanの中で、ヴァシーリー・ゴロヴニーンの日本に関する著作の間違いを指摘した。またエンゲルベルト・ケンペルの日本誌に日本の詳述があるとしつつ、彼は日本に2年しかいなくて日本語が喋れず、オランダ領東インド総督のオランダ商館長ヨハネス・カンフフイスに負う所が大きいとした。 川原慶賀の作とされる肖像画が残されている。
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