明治維新以前( - 1868年)
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「日本とバチカンの関係」の記事における「明治維新以前( - 1868年)」の解説
1549年8月に薩摩半島の坊津にフランシスコ・ザビエルがカトリックの布教を目的として来航し、700人ほどの日本人をカトリックに改宗した。その中には、日本人として初めてヨーロッパを訪れた鹿児島のベルナルドも含まれていた。1580年には大名の大友宗麟や有馬晴信をはじめとして日本に約10万人のキリスト教徒がいた。1579年から1582年の間に日本を訪れていたイエズス会員のアレッサンドロ・ヴァリニャーノにより発案された天正遣欧少年使節団が1582年に送られ、スペイン国王のフェリペ2世の歓待や教皇グレゴリウス13世の謁見を受け、グレゴリウス13世の次の教皇のシクストゥス5世の戴冠式に出席した。これは日本からヨーロッパに送られた最初の使節であった。しかし、17世紀に入るとキリスト教が禁圧され、禁止政策はおよそ2世紀半もの間続けられた。この間に多くのキリスト教徒が日本で処刑された。
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明治維新以前
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1552年(天文21年)に周防国山口(現在の山口県山口市)において、カトリック教会(イエズス会)の宣教師・修道司祭であるコスメ・デ・トーレスらが、日本人信徒(キリシタン)を招いて降誕祭のミサを行ったのが、日本で初めてのクリスマスである。しかし、その後江戸幕府の禁教令によってキリスト教が禁止されたので、明治の初めまでの200年以上の間、隠れキリシタン以外には受け入れられることはなかった。 一部の例外として、長崎出島のオランダ商館に出入りするオランダ人たちは、キリスト教を禁止する江戸幕府に配慮しつつ、自分たちがクリスマスを祝うため、オランダの冬至の祭りという方便で「オランダ正月」を開催していた。これには幕府の役人や、蘭学者などオランダ人と付き合いのある日本人も招かれた。また、長崎に住むオランダ通の日本人たちの間でも、これを真似て祝うことがあった。オランダ商館の者たちは江戸に出仕することもあったが、彼らを迎え入れる江戸の役人たちは、オランダ正月を参考に、オランダの料理や文物などを用意して、オランダ人たちをもてなしたと伝わる。
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明治維新以前(~1868年)
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「日本とイランの関係」の記事における「明治維新以前(~1868年)」の解説
地理的に離れていた日本とイラン(ペルシャ)は、有史以来19世紀まで全くと言っていいほど直接の交流を持っていない。明治維新以前の両国は、シルクロードを経由して、イランの影響を受けた美術品が日本にもたらされる程度の関係でしかなかった。 数少ない例外として、奈良時代の天平年間に日本を訪問したペルシャ人のことが、勅撰史書『続日本紀』に記載されている。736年(天平8年)、ペルシャでは後に第6代イマームとなるジャアファル・サーディクが信徒の精神的支柱となっていた時期、日本では藤原四子政権晩期に相当する時期に、遣唐副使中臣名代が唐人3人と波斯人(ペルシャ人)1人を伴って日本に帰国し、聖武天皇に謁見した。李密翳という中国名で記録されたこのペルシャ人には位が授けられているが、その後の消息は不明である。平城宮跡から出土した木簡の解読により破斯清道という大学寮の官吏(765年当時)がいたことが2016年に判明したが、破斯(波斯)はペルシャを意味する名であり、李密翳もしくはその関連人物ではないかと推測されている。
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明治維新以前(1801~1867年)
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「火災の年表」の記事における「明治維新以前(1801~1867年)」の解説
1806年4月22日(文化3年3月4日) - 文化の大火。江戸の三大大火の1つ。 1862年3月7日(文久2年2月7日) - 寅助火事、肥後国人吉(現・熊本県人吉市)。 1864年8月19日(元治元年7月18日) - どんどん焼け(元治の大火・鉄砲焼け)、京都。禁門の変による火災。 1866年11月26日(慶応2年10月21日) - 豚屋火事(関内大火)、横浜。
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明治維新以前
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7世紀末から8世紀初め、日本は大陸の唐や新羅と敵対しており、また日本列島内でも蝦夷など異民族と小競り合いを繰り返していた。これらから防衛するため、日本は養老律令の軍防令によって、成人男性3人につき1人を兵士として徴発し、軍団を構成するとした。しかし、実際に徴兵された数はこの規則より低めであり、1戸から1人が実数ではなかったかと考えられている。兵士の食糧と武器は自弁であり、負担がかなり重かったため、逃亡兵が相次いでいたようだ。 これらは、唐や新羅と関係改善が進み、また蝦夷たちの大和民族への同化が進んで脅威が減少すると不要と考えられるようになり、軍団は縮小、廃止の方向になった。また日本は律令国家から王朝国家に変化していく過程で、軍事政策もかつての民衆を徴用する軍団から国衙軍制に変化した。身分が固定化するに従い、豪族や百姓、俘囚のうち、弓馬に優れるものを優先的に徴用するようになり、軍は少数精鋭の職業軍人の集団へと変化した。また、一般民衆の兵役はほぼ無くなった。 10世紀以降、国衙軍制の発展など、様々な要因から日本には軍事貴族、すなわち武士という身分が形成されるようになった。武士は元来、自らが切り開いた土地を防衛していたが、やがて軍事を通じて貴族にも影響力を与える存在となり、やがて軍事そのものを司る役目が、朝廷や貴族から武士に移っていく。源頼朝によって鎌倉幕府が築かれると、幕府は朝廷から半ば独立して、全国の武士を直接に統括するようになる。一般民衆は志願や強制など、様々な方法で戦争を含む軍事行動に参加したものの、これらは職業軍人足りえず、武士階級による軍事力の独占が進んだ。 時代が進み、日本全国で恒常的に戦乱が続発する戦国時代になると、職の体系、身分制度が崩壊し、武士だけでなく農民や商人も自らの実力に相応しい発言力を求めて軍事力の整備に努め、時に戦乱に参入した。民衆と武士の境目は薄れ、農民は足軽や小荷駄として参戦した。武田家などには、半農半士の者の中に、兵として従軍することで年貢の一部負担を免除された「軍役衆」と呼ばれる集団がいた。城や砦の建設や修復、戦に巻き込まれた市街の再建などの土木工事には、多くの人夫が動員された。戦国時代は、太閤検地の実施から江戸幕府の確立による兵農分離が進められるまで、農民と武士の境目は曖昧であり、多くの者が軍事に携わっていた時代であった。農閑期でなければ戦そのものが難しいなど、一般民衆の軍事への協力は非常に重要であった。 徳川家康によって江戸幕府が開かれた後、再び身分が固定化するようになったため、軍権は武士階級が独占するようになり、百姓や町人たちは原則として軍事から切り離された。江戸時代における武士階級の軍権の独占は、幕府と大名の武威に基づくものであり、武威は参勤交代における大名行列によって百姓や町人に示された。ただし、大名行列は武士だけでは成り立たなかったため、大名は、百姓や町人をエキストラとして行列に参加させることで頭数を揃えることが多かった。
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