砦の建設
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「ウィリアム・ヘンリー砦」の記事における「砦の建設」の解説
1755年の8月、サー・ウィリアム・ジョンソンと3,000から4,000にものぼる大陸軍はラック・サン・サクラマンLac St. Sacrementに野営し、その時ジョンソンは、時のイギリス国王の名にちなんで、この湖をジョージ湖と改名した。一方、フランス軍の将軍ディスカウは、野営地からジョージ湖をはさんで対岸にあるタイコンデロガの地にフランス兵、ヌーベルフランス民兵にインディアンの予備兵を集結し、果敢にもエドワード砦に向けて進軍を始めたが、グレンフォールズ周辺に到着して、その時に「血ぬられた朝の斥候」The Bloody Morning Scoutが起き、それがジョージ湖の戦いへと発展し、この戦いでディスカウ率いるフランス軍は敗退した。このことでイギリス軍は、この地が如何に重要であるかを悟り、ここに砦を建てることにした。湖の対岸ではフランスがカリヨン砦を建築中であった。 クラウンポイントにあったフランスのサン・フレデリック砦攻撃の足がかりとなるこの砦は、ニューヨークからモントリオールへの、重要な位置にある連水経路に沿った、一連の英仏の砦の一部で、また、ニューヨークとヌーベルフランスの境界の要となる位置をも占めていた。砦の名は、国王ジョージ2世の王子であるカンバーランド公ウィリアム、そしてジョージ2世の孫で、ジョージ3世の弟であるグロスター公ウィリアム・ヘンリーにちなむ。 設計と建築は、イギリス軍の技師ウィリアム・エアの監督に任された。ウィリアム・ヘンリー砦は、変則的な正方形の砦で、それぞれの隅に稜堡があった。この設計は、インディアンの攻撃を撃退するものであったが、大砲を持った敵相手には、必ずしも耐えられるものではなかった。城塞は30メートルの厚さで、土塁の周りに丸太が巡らされていた。内部には、2階建ての木造の兵舎が、練兵場の周囲にあった。砦の三方は乾いた堀で、残りの一つは湖の方へと降っているため、砦への唯一の接近手段は、堀にかかる橋だった。400人から500人の兵を収容するのが精一杯で、それ以上の部隊は、砦から750メートル南西に離れた、塹壕のある野営地に宿営した。ここはジョージ湖の戦いの戦場から、さほど離れていなかった。
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砦の建設
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2月20日、植民者達はサントドミンゴを離れてから3ヶ月ぶりに陸地に上がった。現在のマタゴルダ灯台の場所近くに一時的なキャンプを設営した。遠征隊の日誌作成者アンリ・ジューテルは初めてテキサスを見た時に、「この地は私にとって大変良いようには見えない。平坦で砂が多いがそれでも草は育っている。塩水湖がいくつかある。我々に出くわすとは思っていなかった幾羽かの鶴やカナダガンを除いてほとんど野鳥が見られない。」と記した。 ラ・サールはボージューの助言に逆らって、ラ・ベルとレマブルに「狭くて浅い海峡」を通らせ、キャンプに近いところまで物資を持ってくるよう命じた。ラ・ベルが無事海峡を抜けた後で、ラ・サールはその水先案内人をレマブルに送って航行を援けさせたが、レマブル船長がその援助を拒んだ。レマブルが帆を揚げたとき、1隊のカランカワ族が近付いて来て、開拓者を何人か連れ去った。ラ・サールは少数の兵士を連れてその救出に向かったが、レマブルに指示を与える者を残さなかった。ラ・サールが戻ってきたとき、レマブルは砂洲に座礁していた。ラ・サールは、船長が砂洲に当たった後も船を前進させるよう命令したことを聞いて、船長が意図的に船を座礁させたと確信するようになった。 人々は数日間レマブルに載せていた道具や食糧を取り戻そうとしたが、激しい嵐のために食糧、大砲、弾薬および少量の商品以外のものを回収することができなかった。レマブルは3月7日に沈没した。カランカワ族が漂流物の多くを勝手に回収した。フランス兵がその物資を取り戻すためにインディアンの集落に近付くと彼らは隠れた。放棄された集落を発見した時、兵士達は略奪された商品を取り戻しただけでなく動物の毛皮やカヌーを持ってきた。怒ったカランカワ族が攻撃してきてフランス人2人を殺し、他の多くを傷つけた。 ボージューは大西洋を渡って植民者を送り届ける任務を果たしたことで、1865年3月にル・ジョリーに乗ってフランスに戻った。植民者の多くがボージューと共にフランスに帰ることを選んだので、残ったのは約180人になった。ボージューは追加物資を要請するラ・サールの伝言を運んだが、フランス当局はスペインとの休戦がなっていたこともあり、反応しなかった。残った植民者達は赤痢や性病を患い、毎日のように誰かが死んだ。適応できた者達がマタゴルダ島に原始的な住居や一時的な砦の建設を援けた。 3月24日、ラ・サールは52人の者をカヌーに乗せて無防備ではない開拓地を探しに出かけた。彼らは新鮮な水と魚がおり、川岸には良い土壌のあるガルシタス・クリークを見つけて、近くにバッファローの群れがいたのでビューフス川と名付けた。その河口から1.5リーグ (6,7 km) 上流のクリークを見下ろす崖の上にサンルイ砦を建設することになった。ガラガラヘビに咬まれて1人が、釣りをしようとしているときに溺れて1人が死んだ。夜にはカランカワ族が時々キャンプの周りを囲んで雄叫びを上げることがあったが、兵士達は数発の弾丸で彼らを追い返すことができた。 6月初めにラ・サールは一時的に造っていたキャンプ地から新しい開拓地に植民者達の残りを呼び寄せた。70人の者が50マイル (80 km) の陸の旅を6月12日に始めた。全ての物資をラ・ベルから運ばねばならず、体力を使わせる仕事は7月半ばに終了した。最後の積荷は船の守りに残っていた30人の者達が付き添った。開拓地の近くには木が繁っていたが、建物には適しておらず、木材は数マイル内陸から建設地まで運んでくる必要があった。レマブルから回収した木材もあった。7月末までに、開拓者の半分以上が死んだが、その大半は乏しい食料と過労の組み合わせのためだった。 残った開拓者達は開拓地の中央に大きな二階建ての建物を建設した。一階は3つの部屋に分けられ、1つはラ・サール用、1つは聖職者用、もう1つは遠征隊の士官用となった。二階は物資を蓄えるための1室になった。これを取り囲むように幾つかの小さな建物が建てられ、遠征隊メンバーの住処にされた。レマブルから回収した重さが700ないし1,200ポンド(318ないし514 kg)の大砲8門が植民地の守りのために周りに据えられた。
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