補給と砦の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 18:13 UTC 版)
「アンティオキア攻囲戦」の記事における「補給と砦の建設」の解説
3月、イングランド王位を主張していたエドガー・アシリング率いるイギリス船団が、エドガーの亡命先であるコンスタンティノープルから聖シモン港へと到着した。彼らは攻城兵器構築用の木材など補給物資を多数運び込んだが、3月6日にレーモンとボエモンの軍勢が補給物資とともに海岸からアンティオキア城下に戻る途中(彼らは互いに、相手が単独で補給物資を運べるとは信用していなかった)、ヤギ=シヤーンの守備隊の別働隊に襲われてそのほとんどを失った。ゴドフロワの援軍の到着で別働隊は撃退され残った補給物資は確保された。エドガーは皇帝アレクシオス1世コムネノスから船団や資材などの提供を受けていたが、十字軍はこれを東ローマ帝国による直接の援助とは考えなかった。 十字軍は資材を使い攻城塔を組み立て始めたほか、「ラ・マオメリー」(La Mahomerie)と名付けた砦も築いた。この砦でアンティオキア市の「橋門」を塞ぐことにより、ヤギ=シヤーンの軍勢が城外へ出て聖シモン港やアレクサンドレッタ港から十字軍への補給路を襲うことを防ごうとしたもので、レーモンがこの砦に兵を置いた。また、城内への補給物資の搬入口となっている聖ゲオルギオス門に対しては、すぐそばの放棄された修道院を修復して砦とし、タンクレードが兵を置いた。年代記ではこの修道院跡はタンクレードの砦と呼ばれている。こうしてようやく十字軍はアンティオキアの封鎖にある程度成功する。春が近づくにつれ十字軍の食糧事情も好転した。
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