砦の解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 02:56 UTC 版)
「スタンウィックス砦包囲戦」の記事における「砦の解放」の解説
スカイラーは8月8日のオリスカニーの戦いについて報告を受けており、翌日エベネザー・ラーニドのマサチューセッツ第4連隊を砦の救援のために派遣していた。8月12日、ウィレットの到着前のことだったが、スカイラーは作戦会議を招集し、すでにハドソン川に到着したバーゴイン本隊とセントリージャー隊双方の脅威に対処する方法を協議した。タイコンデロガ砦からアーサー・セントクレア将軍の部隊が撤退したことをスタンウィックス砦でも繰り返すようになることを怖れ、作戦会議ではほぼ全会一致でスタンウィックス砦の解放部隊派遣を止めた。スカイラーはこの決定に反対であり、救援部隊派遣に固執していたので、アーノルドがその部隊を率いて行くことを申し出た。このスカイラーの行動に加えて、ピークスキルを本拠にするイズラエル・パットナム少将が8月14日に2個連隊(カナダ第1連隊とニューヨーク第2連隊)を派遣した。この部隊は既にモホーク川流域を守備任務地としていた。これら2つの部隊は包囲戦が終わったときにはまだ行程半ばであり、その報せを受けて戻った。 アーノルド、ウィレットと700名の大陸軍は8月20日までにデイトン砦に到着した。アーノルドはここで部隊を大きくしたいと考え、トライアン郡の者達に再度セントリージャー隊に対抗することに関心を引こうとしたが、100名ばかりを徴兵できただけだった。その後、友好的なオナイダ族やタスカローラ族を説得して隊に加わらせるか、スカイラーに別の1,000名を要請してそれが容れられるかを期待して、待機することに決めた 。しかし、包囲戦が重要な局面に来ており行動が必要だという報せが届いた。セントリージャーはその大砲が長射程では砦の壁に対して無効であることが分かり、より砦に近い陣地を構築するために塹壕掘りを始めさせていた。ガンズヴォートは、包囲陣の塹壕が砦の稜堡の1つに攻撃できるほど近付いてきたと知らせてきた。 アーノルドは自部隊の勢力に不満であったので、イギリス軍宿営地に問題を起こす策略を講じた。デイトン砦にいうるちに多くのロイヤリストを逮捕しており、その中にはホン・ヨスト・スカイラーも含まれていた。ホン・ヨスト・スカイラーはニューヨーク王室連隊の隊員であり、スタンウィックス砦を攻撃しているモホーク族インディアンの中で育った者だった。アーノルドは彼を説得して、「ダーク・イーグル」の指揮する大勢のアメリカ兵がセントリージャーの宿営地に向かっているという噂を広めさせた。ホン・ヨストの行動はやはり捕虜の中にいたその兄弟を人質にすることで保障された。 アーノルドの計略は幾らかの成功を収めたと考えられている。セントリージャーは8月21日に「アーノルドが3,000名を率いて急速かつ強行軍で近付きつつある」と報告した。この日アーノルドはまだデイトン砦を発してはいなかった。セントリージャーが作戦会議を開いた時、既に約200名のインディアンが宿営地を後にしており、作戦会議に出てきたインディアンも包囲戦と彼らの持ち物が無くなったことに不満であり、包囲戦を止めなければ引き上げると脅した。8月22日、セントリージャーは宿営地を畳み、オンタリオ湖方面へ引き返し始めた。後にはかなりの量の装備が残された。セントリージャー隊の多くの者が脱走するか、砦の守備隊に捕獲された。その中にはホン・ヨスト・スカイラーも含まれていた。
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