連隊の隊員
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津村(つむら)中佐 演 - 小林桂樹 連隊長。山田少佐から雪中行軍計画書の提出を受けた際に、神田隊のほかに上部組織の大隊本部が随伴することによる指揮系統の乱れを不安に思ったが、山田少佐の「三十一連隊は既に弘前を出発した」という報告により、「随行する大隊本部は行軍と無関係の編成外組織で、行軍隊の指揮は神田大尉が執る」ことを再確認したうえで木宮少佐同席の下、計画書に署名して決裁印を捺した。 五連隊雪中行軍隊結団式(ただし、下士卒は欠席)では木宮少佐同席の下「行軍隊・随行員計210名の中から、たとえ一人といえども落伍者その他を出さぬよう、万全の準備とその実施を希望する」と参加隊員に訓示。出発当日(1月23日)は屯営正門で木宮少佐らと共に雪中行軍隊員を見送った。 神田隊遭難後、救助隊員によって「遭難した五連隊雪中行軍隊の中から江藤伍長を含む12名の生存を確認し救出した(うち1名は救出後に死亡)」との報告を受け、五連隊幹部を引き連れて田茂木野へ迎えに出向いた。このとき、山田少佐から謝罪を受け、自身は山田少佐らに三十一連隊(徳島隊)が八甲田を踏破したことを伝えた。 モデルは津川謙光中佐。 木宮(きのみや)少佐 演 - 神山繁 連隊本部所属。先に提出・受理された三十一連隊(徳島隊)行軍計画書を山田少佐らと共に閲覧した時は、「大胆というか無謀というか、意図がよくわからん」と長距離行軍計画に疑問を抱いた。 のちに神田大尉と山田大隊長より提出された「五連隊雪中行軍計画書」の内容審議へ同席。津村連隊長が計画書を決裁し雪中行軍実施許可を出すための署名捺印準備を行うと共に、神田隊結団式と出発当日の見送りにも同席した。 1月25日に神田隊が三本木に到着しているかの確認を三本木警察(現在の青森県警察十和田警察署)に電話確認し、「五連隊は昨日(1月24日)の午後4時に無事三本木へ着いた」という返答をもらい安堵したが、当の神田大尉や山田少佐からの報告がないことを不審に思い、三本木で神田・徳島の両隊がすれ違うはずと考えた津村中佐の命で再度、三本木警察に安否確認を行った。すると、三本木に到着したのは神田隊ではなく徳島隊であって、翌朝に増沢へ向かったと判明した。このことで、神田隊は八甲田で遭難したのではないかと心配し、これを受けた津村中佐は第四旅団すべての連隊長、大隊長、中隊長を緊急招集した。 神田隊の遭難判明後は、田茂木野の民家と倉庫を借りる形で遺体安置所と捜索隊詰所(現地指揮本部)を立ち上げ、そこで捜索活動の指揮を執る。救助隊伝令の花田伍長より江藤伍長発見の報告を受け取っている。 捜索隊詰所に八甲田を踏破した徳島隊の徳島大尉が訪れ、徳島隊の全員生還を伝えられ、鳴沢から賽の河原にかけての広範囲に神田大尉以下の五連隊隊員の遺体を多数発見の報告を受けた。既に23体の遺体を1月28日(徳島隊打擲前日)に収容していたため、徳島大尉を神田大尉の遺体が安置されている遺体安置所へ案内した。 数日後に友田少将と中林大佐へ捜索活動報告書を提出。「遭難した五連隊雪中行軍隊の中から江藤伍長を含む14名の生存を確認し救出したが、うち2名は懸命の手当ても空しく救出後に死亡。よって生存者は12名となった」と報告した。 三上(みかみ)少尉 演 - 森田健作 遭難救助隊の隊長。大峠まで地元住民を案内人として雇い、遭難救助隊を率いた。猛吹雪にさらされ瀕死の江藤伍長を発見した。救助後の江藤伍長の報告をもとに「遭難した五連隊雪中行軍隊の中に生存者がいる可能性はあり得ない」と津村中佐らに報告している。 モデルは三神定之助少尉。 花田(はなだ)伍長 演 - 伊藤敏孝 遭難救助隊の伝令を担当。江藤伍長発見の報を木宮少佐らに届けた。その際に、江藤伍長の言から「雪中行軍隊は山田大隊長・神田中隊長以下全滅の模様。引き続き付近を捜索中であります」と報告した。
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