雪中行軍隊とは? わかりやすく解説

雪中行軍隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 15:21 UTC 版)

八甲田山 (映画)」の記事における「雪中行軍隊」の解説

徳島とくしま大尉 演 - 高倉健石井明人(幼少期回想第一大隊第二中隊長。青森県南津軽郡石川町現在の弘前市一部乳井出身自宅弘前市富田養母黒石市北田中居住している。岩木山雪中行軍経験があり、冬山寒冷地積雪地における行軍成功させるための様々な工夫を行う。これが「装備軽くした少数精鋭編成」へ結びつき第三十一連隊八甲田山雪中行軍一人落伍者も出すことなく成功させることにつながった日没時には現地民家宿営し寒さ暴風雪をしのぎ、睡眠および休憩時間食事も十分確保して疲労による落伍を防ぐ工夫をした。 青森歩兵第五連隊神田大尉とは、第四旅団司令部における「雪中行軍作戦会議」で「天候恵まれた一度二度経験何の役にも立たない」「悪天候など万一事態遭遇しても命を守る備え確実にする」などの助言をしたり、自宅招いて岩木山雪中行軍内容学習行い、「大人数では指揮官の目が隅々まで行き届かず隊列維持および指示命令&注意事項伝達が困難となり遭難危険性が高まるので・少人数小隊編成命令系統一本化し冬山経験知識が豊富で体力のある者のみを厳選した少数精鋭主義」「自分たちで装備宿営用具食糧炊事道具寝袋燃料など)を運べ負担増し行軍全体に遅れが出るので、装備極力軽くする。宿営原則民泊とし、食糧燃料などの消耗品宿営地地元住民より提供してもらう」「吹雪の中で目標把握が困難で方位磁石地図役に立たないので、地元土地勘がある案内人を雇う」「事前準備期間は十分確保し、特に寒さ対策怠らない」「出発前および本番中気象情報収集怠らない悪天候日没目的宿営地への到着が遅れそうな場合出発地前日宿営地へ引き返す・または途中で雪濠掘って露営するなど寒さしのいで命を守る工夫をし、決して無理せず余裕ある行軍計画立てる」「万一道に迷ったむやみに動き回らず雪濠掘って露営するなど体力温存努める。日没時暗闇むやみに動き回らずその場とどまり出発翌朝天候回復まで待つ。救助要請をした時は動き回らず救助隊員に見つけてもらえるよう生存意思表示をする」「暴風雪など天候の悪化予想される場合行軍自体中止する、および途中で行軍日程切り上げ引き返す勇気を持つ」といった雪中行軍心構え説いている。 一時八甲田山での雪中行軍中止具申することも考えていたが、旅団長実質的な命令三十一連隊長と五連隊長約束事から、八甲田山雪中行軍徳島隊の指揮官として、「弘前出発後・小国十和田湖中里三本木増沢八甲田田茂木野青森経由弘前へ戻る1011日全長240km行程」で雪中行軍計画実施する行軍本番1か月前に経由地町村役場へ「消耗品食糧宿営地の提供や案内人雇用などへの協力求め手紙」を出すと共に部下佐藤一等卒と小山二等卒など)に対し行軍経路下調べ現地での案内人手配宿営地糧食消耗品調達交渉、および凍傷低体温症防止方法など・地元住民からの各種情報事前収集年末年始休暇返上で行う」よう命じた徳島結団式では隊を構成する27全員出席したうえで「水筒は(満水にせず)七分目まで入れ絶え動かしていれば凍らない人間の体もそれと同じだ。たとえ小休止といえども足の指は靴の中で動かし手袋をはめた指も必ず動かす」と行軍時における注意事項訓示するなど、凍傷危険性や、飲料水糧食凍結防止について十二分に説明行った本番1週間前に神田大尉宛てた手紙速達出し徳島隊の経路困難な区間明らかにしたうえで、五連隊神田隊に「最も遭難危険性が高い区間」を暗示した雪中行軍本番1月20日徳島隊は午前5時に弘前屯営出発し軍歌雪の進軍斉唱するなどして隊の士気高めた隊員には「行軍中の勝手な行動一切厳禁」「防寒着装着などは自身徳島大尉)の指示命令出てら行う」ことを徹底させた。凍傷低体温症防止には足踏み手指摩擦や、足先保温のため雪沓使用油紙で足を包み靴下唐辛子をまぶす・厚手靴下三重に履かせるなどの処置を行わせた。小国切明現在の平川市)で宿営小休止をしたのち、白地山元山経由十和田湖畔の銀山現在の秋田県鹿角郡小坂町)へ向かう際には暴風雪兆しいち早く察知し耳当て着用厚手手袋二重着用襟巻きマフラー)を巻くことを隊員指示している。宇部(現在の十和田市)で宿営後、中里現在の三戸郡新郷村)へ向けて犬吠峠を越える際には、隊員全員荒縄一列に結び、滑落視界不良による落伍防いだ中里では案内人別れたのちに、地元住民からの「家に泊まらないか」との誘い断って集落近く空き地壕を掘り一夜を明かす夜間耐雪訓練実施している。三本木現在の十和田市到着時に予定通りであれば神田隊が三本木到着しているはずだが、五連隊本部にその報告入っていないとの連絡三十一連隊の門間少佐より(三本木の宿の主人通じて受け取るが、悪天候などで遅れることはあると考えて自身神田隊が消息を絶っているとは思っていなかった。次の宿営地である増沢でも神田隊の姿はなく、八甲田山への出発前に神田大尉を心配する八甲田山増沢現在の十和田市)から田代現在の青森市)へ至る経路では、現地雇った案内人に従って行軍し田代温泉への道は猛吹雪で見つけられなかったものの、道中壕による露営などで隊の損耗抑えた田代出発直後斎藤伍長が弟・長谷部善次郎一等卒遺体を見つけ「弟の亡骸背負って帰りたい」と懇願されると、「(亡き弟と一緒に帰りたい気持ちはよく分かる。だがこの先田茂木野まではまだまだ難関があるため、弟を背負った斎藤伍長倒れればそれを助ける者もまた倒れ我が三十一連隊は全滅する。弟の遺体後日救助隊収容に来るから、今は静かに眠らせておいてやれ」と慰留し「自隊の安全を最優先する」旨を強調。のちに参加者全員長谷部一等卒遺体黙祷捧げた一行猛吹雪八甲田踏破し田茂木野現在の青森市)へ着くと(案内料を支払って案内人別れたのち五連隊捜索隊現地指揮本部立ち寄り)、「自隊(三十一連隊)は負傷のため三本木より弘前途中帰営させた松尾伍長を除く全員猛吹雪八甲田踏破鳴沢から賽の河原にかけて神田大尉を含む五連隊の隊員複数遺体発見した」旨を五連隊捜索隊指揮官の木宮少佐報告。しかし、実際に神田大尉らの遺体前日時点で既に収容されており、田茂木野設けられた「五連隊雪中行軍遭難犠牲者遺体安置所」で(本来八甲田山中で会うはずだった)神田大尉遺体悲しみ対面をする形となった三十一連隊が八甲田雪中行軍を無事成功させた旨は「五連隊大量遭難」に大きく報じられなかったものの、その後の「寒地訓練確立寒地対応装備開発」へと活かされている。 モデル福島泰蔵大尉田辺(たなべ)中尉 演 - 浜田晃 行軍本番中徳島大尉指示復唱し隊員指示が行き届くようにした。 中里集落では案内人最後尾に置くことを上申するが、徳島大尉却下されている。 高畑たかはた少尉 演 - 加藤健一 行軍本番前の「三十一連隊雪中行軍隊結団式」では、経路事前調査宿営地案内人などの交渉担当した佐藤一等卒と小山二等卒からの報告内容メモする行軍本番では小国から琵琶の平を経て切明への行軍中「後尾に付け」と徳島大尉に命ぜられ、隊列最後尾に付く。 船山(ふなやま)見習士官 演 - 江幡連 気象観測担当する見習士官銀山から宇部までの行軍中に実施した気象観測では「気温6度急降下し風も急に強まってきているので、これは本格的な大暴風前兆ではないか」と徳島大尉報告する。なお行軍中は「風向・風速測るための吹き流し付き竹棒」と「積雪の深さ測る竹棒」をそれぞれ背嚢固定すると共に現在地気温測る温度計携帯している(気温は「手元温度計で測った温度」と「体感温度」の2種類測定報告)。また、足を捻挫した松尾伍長背負川瀬伍長の銃を持つように徳島大尉命じられた。 長尾(ながお)見習士官 演 - 高山浩平 隊員疲労度調査担当する見習士官倉持くらもち見習士官 演 - 安永憲司 装備点検担当する見習士官。宇部での宿営時は翌日控えた犬吠峠越え行軍備え参加者全員が「濡れた軍服下着靴下軍靴干して囲炉裏の火で乾かすこと」と「かんじき雪沓服装など損傷の有無点検」を自主的に励行したり、装備服装損傷があるときは新品購入するなどした。 斉藤さいとう伍長 演 - 前田吟 歩測担当青森第五連隊長谷部善次郎一等卒の兄。 過去徳島大尉部下として、岩木山雪中行軍参加した経験がある。弟・善次郎幼い頃宮城県栗原郡築館町現在の栗原市)へ養子出されたことから、怖さ知らないこと、五連隊雪中行軍参加者地元青森ではなく積雪量少な岩手宮城出身者構成されていることから、八甲田山遭難する危険性が高いと考えて行軍本番前青森にいる叔母へ、弟に八甲田雪中行軍参加しないように伝言している。 行軍本番では歩測調査により、小休止場所・宿営地までの歩数記録した中里から三本木への行軍中に普段は切れることのない雑嚢の紐が切れ、このことで弟の死を確信した。後に、八甲田山で弟の凍死体を発見し直接会って怖さ伝えられなかったことを後悔し徳島大尉に弟を背負って帰りたい懇願するも、隊の安全を優先する徳島大尉後日救助隊収容に来ると諭され、その場遺体残して行軍続けた松尾(まつお)伍長 演 - 早田次 元山峠から銀山への行軍中、凍結していた下り坂転倒し足を捻挫したこのため中里への宿営時は自分たちで掘ったではなく現地民家泊まり八甲田手前三本木にて行軍隊より外され汽車現在の青い森鉄道線奥羽本線)で弘前帰営する。 川瀬(かわせ)伍長 演 - 吉村道夫 銀山から宇部への行軍中に捻挫した松尾伍長背嚢などを持つと共に自力歩行困難となってきた松尾伍長背負うよう徳島大尉から命じられた。 佐藤(さとう)一等卒 演 - 樋浦勉 小山二等卒と共に行軍実施前の宿営地交渉経路事前調査年末年始休暇返上担当佐藤一等卒は『「銀山民宿経営者三十一連隊の宿営二つ返事引き受けてくれた」旨と「銀山から宇部までは18 km現地積雪は約2 mあり、風はその日次第今は何とも言えない」との情報地元住民より得た』旨を徳島大尉報告する三十一連隊への入営前に銀山働いていた経験活かし行軍本番では銀山から宇部までの案内人務めた銀山小休止中は「夏場訪れた十和田湖秀麗な湖面」を思い出していた。 加賀(かが)二等卒 演 - 久保田欣也 喇叭手行軍では「気温低く猛吹雪となっている八甲田山中でも喇叭音色遠くまで響かせられるか否かを試す」旨の宿題徳島大尉より与えられた。宇部にて宿営中は喇叭磨きながら「五連隊神田隊)がもし今日1月23日出発していたら猛吹雪遭い、えらいことになっているのでは?」という会話斉藤伍長西海記者交わした。この予感的中しており、神田隊は田茂木野以降猛吹雪見舞われていた。 一行犬吠峠を越えて中里集落に入ると、徳島大尉指示により先頭に立ち、喇叭吹奏する小山(こやま)二等卒 演 - 広瀬昌助 佐藤一等卒と共に行軍実施前の宿営地交渉経路事前調査担当増沢出身という地の利活かし行軍本番では三本木から増沢までの案内人務めた増沢への宿営時は参加隊員唯一実家での宿泊」を許可された)。 徳島従卒 演 - 渡会洋幸 佐藤一等卒・小山二等卒と共に行軍本番前経路事前調査宿営地案内人消耗品食糧調達交渉」を担当した曹長 演 - 原敬見習士官 演 - 北村博之塚田一彦広尾博、佐藤健二郎

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八甲田山 (映画)」の記事における「雪中行軍隊」の解説

神田(かんだ)大尉 演 - 北大路欣也 第二大隊第五中隊長。雪中行軍隊の指揮官秋田県出身で、自宅青森市筒井にある。 平地での雪中行軍実施経験があったものの、山岳地帯での行軍今回八甲田初だった。そのため、雪中行軍前の予備演習実施徳島大尉から勧められ八甲田小峠で「小隊編成かつソリ1台」による予備演習実施予備演習好天であり、成果行軍参加者人選、隊の編制資料として活用した行軍田代宿営する1泊2日予定したが、悪天候などによる日程順延想定し田代増沢宿営地とする2泊3日変更行軍終了後三本木から汽車現在の青い森鉄道線)で帰営するとしていた。しかし、隊員大半冬山不慣れであったことに加え猛吹雪などの悪天候想定した壕を掘って露営背負子用いた荷物運搬などを予備演習では実施しておらず、行軍本番神田隊にとって2泊3日でも強行日程であった行軍本番前部下藤村曹長江藤伍長伊東中尉率いて経路事前調査行い江藤伍長から紹介され田茂木野村長作右衞門に「冬の八甲田様子行軍成功させるために必要な装備など」についての説明を受ける。また、汽車現在の奥羽本線)で弘前徳島大尉自宅訪ねて岩木山雪中行軍情報収集行い八甲田雪中行軍参考資料とした。 津村連隊長より「先に提出され徳島行軍計画書が受理され三十一連隊の雪中行軍実施許可出された」旨の電話連絡を受けると直ち連隊長室へ赴き、(徳島隊の行軍計画書を山田少佐同席の下で閲覧したのち)「青森市内より田茂木野田代増沢経由一本道三本木へ向かう」とする自隊の行軍経路津村連隊長山田少佐らに説明席上津村連隊長より「本番での行軍編成どうするか」について聞かれると、「(自分としては、徳島大尉より学んだ事項踏まえて極力少人数小隊編成とし・道案内人も必要と考えるが、それらの可否小峠までの予備演習結果をみて決める」と述べた。 だが、作右衞門説明徳島大尉宅での勉強会学んだ内容予備演習成果雪中行軍本番活かされず、上官第二大隊長山田少佐には「(『冬の八甲田は白い地獄だ』との話を地元民より聞いたため)田茂木野事前に案内人頼んだ」旨を報告しなかった。のちに(徳島隊の行軍計画閲覧時に小隊編成三十一連隊長距離行軍は強引かつ無謀すぎるから成功するとは思えない」と皮肉り、「小峠までの予備演習結果良好だった」旨の報告神田大尉より受けた山田少佐雪中行軍目的を「小隊編成かつ長距離三十一連隊に勝つため」へとすり替え・「大隊繰り出して八甲田行ける」として本番直前に(自身小隊編成要望一方的に退けて行軍編成急きょ変更。(自身当初計画になかった想定外事項として)山田少佐率い大隊本部が「編成外」として行軍随行することとなり、本隊は「自身率いる五中隊主力とした・五連隊全体参加する中隊編成」へと変わったことで、行軍本番予備演習時とは180度異な条件となり・参加人数が「(自身希望した当初小隊規模から一方的に組み替えさせられ行軍本隊196名・随行大隊本部14名の計210名。(食糧燃料炊事道具寝袋などを積んだ行李輸送隊ソリ8台」へと大きく膨れ上がった本番前毎晩遅くまで自宅行軍編成計画作成没頭徳島大尉より速達届いた手紙読み徳島隊が1月20日弘前出発する」旨を知った本番前予備演習終了後)に「(自分宛ての手紙が兄の斎藤伍長から届いたため)青森市内叔母の家へ行きたいので外出許可がほしい」と申し出た従卒長谷部一等卒には、外出許可を出す際「(行軍本番前調査同行した藤村曹長江藤伍長伊東中尉中隊長室へ呼ぶ」よう言い、徳島出発前日に「本番での行軍編成最終決定版」を(藤村曹長江藤伍長伊東中尉に)説明した席上「五連隊全体が行軍に参加する中隊編成良いと思う。だが大隊本部随行編成外の参加とはいえ、『中隊指揮権を持つ中隊長殿の上に・もう一つ上部機関がくっつく』ことになるから、船頭多くして船山に登る神田中隊長殿・山大隊長殿相互間で指揮権奪い合い起きて命令系統曖昧になる)事態招きそうで不安だ」との訴え藤村曹長らより出たが、徳島出発日迫り自隊も本番まで時間がなかったことから「自隊の出発が遅れれば、事前に決めた徳島隊と八甲田すれ違う約束守れなくなる」と焦りの色を濃くし、山田少佐言いなりになる形で「大隊長殿には大隊長殿のお考え(『小隊編成かつ長距離徳島隊に勝ちたい』との強い思い)もあるようだ」として部下からの声を一切聞き入れず、「(自身率いる五中隊根幹主力という維持しつつ、たとえ2個や1個小隊になったとしても)行軍最適となる参加者人選を急ぐ」よう藤村曹長らへ一方的にトップダウンで)命じたこのため部下は「本番指揮系統乱れる(指揮官事実上2名となり、山田大隊長殿・神田中隊長殿どちらの命令従えば良いのか迷ってしまう)不安」と「自分たちの意見要望上司受け入れてもらえない不満」がくすぶった解消されない)まま、「不完全燃焼」・「(余裕のない準備期間からくる事前準備不足」・「(結果として冬山知識乏しく軽視する隊員大半占めてしまう)急ごしらえ参加者選考」・「(雪中行軍するにはあまりにも多すぎる)過剰な参加人員大荷物」状態で雪中行軍本番迎える形となり、これが悲劇世界最悪大量遭難による五連隊全滅)のきっかけとなっていく。 こうして「五連隊雪中行軍計画書」は(徳島出発当日に)山田少佐によって津村連隊長提出決裁され雪中行軍実施許可出された。連隊長室で行われた結団式では自身が(本隊属する)各小隊長の名を・山田少佐随行大隊本部員代表の名をそれぞれ読み上げ津村連隊長より「行軍隊・随行員計210名の中から、たとえ一人といえども落伍者その他を出さぬよう万全準備をすべし」との訓示を受ける。結団式後は「参加隊員役割分担」・「凍傷引き起こさないための注意事項服装携行品など)」の説明部下(各小隊長見習士官)に行った出発前夜は妻・はつ子に「携帯懐炉余分に5・6日分用意する」よう要請従卒長谷部一等卒も(外出許可得て叔母の家へ行ったものの兄・斎藤伍長とは会えなかったため、兄からの『雪中行軍参加すべきでない伝言叔母より受け取ったのみで、その後やむを得ず足を運んだ自身の家(神田大尉宅)で風呂を沸かす手伝いをしつつ・出発前夜まで行軍本番前準備をし、自身には「小峠(までの予備演習)はまるでの中の遠足だったから、雪中行軍なんて(本番も)大したことない。本番八甲田三十一連隊とすれ違う旨の噂を聞いたので、自分が行軍に出れば久々に兄(斎藤伍長)に会える」と述べて行軍参加前向きな姿勢示し、(「もし冬の八甲田恐いと思うなら行軍に参加しなくても良い」と自身言っても「兄は心配性なだけ。従卒自分が行軍に出なければ中隊長殿に失礼になる」として)「自らの意思行軍参加する」旨を強調した雪中行軍本番当日1月23日)、神田隊は午前6時55分に青森市内屯営出発したが、部下の不安は案の定的中計画段階から大隊長山田少佐行軍編成規模案内人雇用&大隊本部随行の是非・指揮権などを巡って対立した挙句途中田茂木野以降は(津村連隊長への行軍計画提出時に中隊指揮一切神田大尉任せる」と述べ、本来は随行のみで指揮権持たないはずの)山田少佐全体指揮権奪われ意見具申もほとんど却下山田少佐方針により「道案内人なしで(手元地図方位磁石頼りに)猛吹雪八甲田突入する不完全燃焼状態での行軍となった。また(麓の田茂木野までとは天候が180度一変し猛吹雪となった大峠では、永野三等軍医に「八甲田付近での天候悪化予想されているため、行軍中止し帰営すべき」と進言されるも(行軍続行を強力主張する大隊本部下士官進藤特務曹長今西特務曹長田村見習士官井上見習士官)に「天候変わりやすい山の上は突然の吹雪が当たり前(日常茶飯事)。兵卒下士卒と我々大隊本部員は防寒装備を十分整え保温もきちんとできているから、ここで行軍中止では雪中行軍計画・準備無駄になる行軍これ以上続行不可能とは思えず、たとえ作戦遂行不可能な状況に陥っても・それを可能にするのが我々の任務だ」と反対され、(自身が何も言えない不完全燃焼のまま)山田少佐に「悪天候でも予定通り田代に行く」と勝手に出発命令された。 ソリ隊は「(参加人数大きく膨れ上がり予備演習時とは比べ物にならない大量の重い荷物引かされた」ため(ソリをなかなか前へ進められず・摩擦抵抗増して大汗をかき)体力消耗屯営から平坦な道だった幸畑過ぎた時点で既に本隊より遅れ始め田茂木野以降での小休止時間が(ソリ到着を待つ関係で)予定より延びて行軍全体の遅れ」と「田代到着前に日没迎え事態」につながっていく。田茂木野出発し小峠近づくと・上り坂がきつくなり積雪量倍増したことから、先頭かんじき隊による行軍経路開拓が困難となってソリ横滑り頻発ソリ隊は本隊より後方へ2km以上もずるずる引き離されて遅れがますます大きくなり(2時間以上にまで広がり)、1台80kg・総勢210分の重い荷物積んだソリ8台の牽引後押しを担う隊員は(重い荷物と深いによる摩擦抵抗ソリが前へ進まず疲労増していった(ソリ牽引時にかいた汗はやがて激烈な寒さ凍結し濡れた下着貫いた冷気により凍死する隊員続出する)。 自身大峠に近づいた時点で「遅れているソリ放棄し荷物各隊員に持たせたい。重いソリこのまま動かすと中隊動きが遅れる」旨の意見具申山田少佐したものの、「今は難中だが、積雪状況その他で楽になる可能性もある。ソリ放棄はいよいよ駄目な場合だ」と退けられてしまう。結局日没後に平沢手前立ち往生するまで(本隊より援護班を送りつつ)重いソリを動かす形となり、ソリ隊員とその援護隊員多大な負担背負羽目になる。 小峠小休止後は江藤伍長先頭に立たせて「前方偵察」を命令自身江藤伍長の後を追いつつ(猛吹雪の中で)手元地図方位磁石確認し、「(田代方面への)針路右手である」旨を藤村曹長指示賽の河原近づくと「これより賽の河原一気越え、中の・按の木経て馬立場を目指す」旨を部下告げて出発命令途中で先頭かんじき隊を交替させると共にソリ隊の遅れ(もともと割り当てていた1台につき4人・8台合計32人の行李輸送隊員のみではソリを前へ進められない事態)を察知し大峠賽の河原馬立場間において中橋中尉率い小隊へ「(遅れている)後方ソリ隊の援護に付く」よう命じた。だがソリ隊の遅れは回復せず(逆にますます大きくなり)、本隊馬立到着後に再度「2km以上も後ろにいて大きく遅れているソリ隊の援護」へ(第1陣中橋小隊加え)鈴少尉率い小隊下士卒30人以上を(銃・背嚢などの手荷物をこの場に置かせ身軽にさせたうえで)ソリ援護第2陣として追加派遣同時に藤村曹長15名の隊員を(宿営手配させるための)先遣隊として田代に向かわせたが、先発隊は猛吹雪暗闇で道に迷い田代へたどり着けず、結局伊東中尉高橋伍長援護していた)ソリ隊の最後尾合流ソリ隊は(自身率い中隊到着から)1時間後に馬立場へ着き本隊合流できたものの、その先は(先頭かんじき隊がバラバラになって機能不全に陥り行軍経路開拓が困難となったため)平沢第一露営手前立ち往生してしまい、以降ソリ棄てて荷物各隊員が持つ方針変更。「藤村曹長率い先発隊からの田代到着連絡がまだない」ことを野口見習士官より知らされ山田少佐命令で・自身将校偵察として田代斥候しても先へ進めず(ソリ隊の大幅遅れで田代到着前に日没迎え山田少佐率い本隊大隊本部先頭自身追いつけず立ち往生し)、ついには想定外行動となる)雪濠掘って途中露営余儀なくされた。だが、山田少佐が(凍傷による全員立ち往生危惧し、「明るくなってから出発すべき」とする自身反対押し切って夜明け待たず深夜のうちに「帰営のため出発命令」したのをきっかけに、一行は(「睡眠不足空腹」にあえいだまま)真っ暗な鳴沢付近で道に迷い方向感覚を失う「リングワンダリング」状態に陥り)丸3日延々と彷徨った末、隊員激烈な寒さ極度睡眠不足空腹疲労蓄積により雪上次々と倒れていく。山田少佐進藤特務曹長の「帰営予定変更し、『田代への道を知っていると言った進藤特務曹長案内田代へ向かう」という妄言翻弄され自身が「地図上で判断では」と制止試みるも失敗し両人主張押し切られ)たため、一行が本来の針路大きく外れて擂り鉢状脱出困難な駒込川本流谷底迷い込むと・直ち地図で自隊の推定現在位置確認し、「田代行き名実ともに諦め駒込川支流沿って西へ進み馬立場へ向かう」方針転換支流が行止まりになると「中隊はこれより、この斜面登る進め」と命令発したのち・崖を登る方法谷底からの脱出試みたが、その際半数上の部下滑落死してしまい落伍遭難死)する隊員急増招いてしまう(猛吹雪の中、雪氷覆われ滑りやすい急斜面登りきって駒込川から脱出するのに精いっぱい部下・仲間助け余裕一切なかったため、滑落した隊員崖下への置き去り余儀なくされた。さらにスコップ持った隊員までもが滑落死したため鳴沢第二露営以降では雪濠掘れず、立ったまま吹きさらし状態での露営余儀なくされたことから、崖登り後も激烈な寒さ落伍する部下急増した)。 結果山田少佐我田引水による朝令暮改的な不適切命令重なったことで隊は(指揮命令系統一本化参加隊員意思統一最後まで一度もできず、不完全燃焼最後まで改善できないまま)馬立場から田代への道中屯営から23km進んだ場所)で遭難し部下が(極度疲労睡眠不足空腹のため猛吹雪激烈な寒さに耐えかね)次々と落伍。道に迷っただけでなく・屯営へも自力帰れなくなり最終的に199名の隊員犠牲となる「史上&世界最悪大量遭難」を招いてしまった。指揮権奪われとはいえ行軍指揮官であったことから、遭難責任を取るため、賽の河原で(「斥候となって田茂木野先行したのち、地元住民雇って引き返し雪中行軍隊の救助にあたる」よう命じて江藤伍長田茂木野へ行かせた直後、舌を噛み切り自決八甲田徳島大尉再会する約束果たせず幻に終わり徳島大尉神田大尉変わり果てた姿田茂木野遺体安置所で目のあたりにする形となったモデル神成文吉大尉伊東(いとう)中尉 演 - 東野英心 第五中第一小隊長。藤村曹長江藤伍長と共に神田大尉行軍本番前調査同行し田茂木野村長作右衛門より八甲田様子などについて説明受けた。 雪中行軍隊の結団式後は先輩藤村曹長江藤伍長と共に、(上部組織である)大隊本部随行することで指揮系統乱れることの不安を抱いた本番で不安は的中し行軍随行するだけのはずであった大隊山田少佐が行軍隊に「出発用意」を命令したことに違和感抱き神田大尉に「随行大隊本部命令(本来指揮権持たない山田大隊長殿が神田中隊長殿の指揮干渉)とはどういうことか?」と確認したりした。 行軍本番中神田大尉副官立ち位置で、指示復唱により隊員指示行き届かせた。気象観測担当兼務したが、実際に気象観測をしたのは予備演習時のみで、本番では遅れていたソリ援護主体任務となった往路大峠小休止し馬立場への出発直前には、山田少佐勝手に出発命令したことで「やりにくいことになった進軍はいいが、大隊長殿がああだと(中隊長神田大尉殿より指揮権奪って我田引水したら)この先どうなるのか」と藤村曹長に不安を訴えた藤村曹長は「神田大尉殿は進軍の腹として、大隊長殿を立てながらも雪中行軍を必ず成功させる」と返答)。 往路馬立場で小休止しソリ到着待っていた時に日没迎え藤村曹長率い先発隊からの田代到着連絡がまだない」ことを(野口見習士官からの報告で)知ると、小野中尉と共に進路偵察将校斥候強力な先導部隊出せば藤村曹長らと合流できるだろう」と神田大尉提案。「まさかの遅れているソリ援護という予定外の)行動下士卒疲れているから一刻も早く田代着けるようにしてほしい」と懇願もした。その後は鈴少尉高橋伍長と共に田代向けて本隊より大幅に遅れていたソリ隊の援護」を担い、(「大隊本部ソリ放棄進言する後尾見てくる」と言ったあと高橋伍長呼ばれその最後尾で藤村曹長率い先発隊を発見。「暗くなって道に迷い、風の乱れ方向が全く分からず、どうしても田代への道を見つけられない」旨の返答報告藤村曹長より受けた平沢第一露営地の雪濠では、「大隊本部山田少佐殿)のやり方には疑問感じる。指揮権神田大尉殿に戻ってほしい」と小野中尉に不満を漏らした復路馬立場からの出発時には生き残った隊員の中で最も元気そう」との理由から、倉田大尉より「(大量遭難招いた責任取らせるべく・山田大隊長殿をいかなる場合でも必ず生きて帰営させるため)隊列最後尾に付く」よう命ぜられた。 復路神田大尉麾下大峠方面へ向かう集団と、倉田大尉麾下駒込川方面を向かう集団賽の河原二分した際には倉田大尉の側に付き山田少佐含めた3名で駒込川方面目指した。後、倉田大尉山田少佐と共に救助隊発見され救出された。 モデル生存者一人である伊藤格明中尉中橋(なかはし)中尉 演 - 金尾哲夫 第六中隊第二小隊長。田茂木野から小峠への往路において神田大尉より「先頭かんじき隊は交代中橋小隊後方ソリ隊の援護に付け」と命ぜられ、ソリ援護第1陣として遅れがちだったソリ隊の援護にあたる。しかしソリ隊の遅れは回復せず、馬立場への本隊到着後も神田大尉指示で(追加第2陣の鈴少尉と共に)「(2km以上も後方引き離された)ソリ援護」へ再度派遣されている。 小野(おの)中尉 演 - 古川義範 第七中第三小隊長。平沢第一露営地に掘られ壕の中で「指揮権山田少佐殿に奪われても、神田大尉殿はこの雪中行軍を必ず成功させる」と隊を鼓舞。しかし、駒込川峡谷から崖を登って脱出した後、卒倒し凍死したモデル水野忠宜中尉。 鈴すずもり)少尉 演 - 荒木貞一 第八中第四小隊長。田代到着後は温かい酒と温泉ありつけることを励み行軍するが、悪天候により予定通り到着できず、隊の士気低下過労招いた馬立到着後に神田大尉より「荷物をこの場に置き、下士卒率いて遅れているソリ隊を援護する」よう命ぜられている。 中村なかむら中尉 演 - 芹沢洋三 第一大隊および第三大隊選抜特別第五小隊長中村率い小隊は五連隊唯一ソリ牽引行李輸送)の担当外」とされていたが、行軍本番では神田大尉命令により「深い阻まれて遅れがちだったソリ援護」に駆り出される野口(のぐち)見習士官 演 - 山西道広 中隊本部所属行軍本番では出発点呼担当小休止場所や宿営地からの出発前に体調不良者・負傷者行方不明者などがいないかの確認を各小隊長にさせ、「異常なし」との報告を各小隊長より受けると「行軍隊・随行全員出発用意整った」旨を神田大尉報告する往路馬立場にて小休止しソリ隊と合流後山田少佐より「(藤村曹長率いる)設営隊からの(田代到着連絡はまだないのか?」と聞かれると「まだのようだ」と返答した(これを受け山田少佐は、当日中に田代へ着くべく「神田大尉将校偵察として田代斥候させ、本隊指揮を自ら代行する方針決定)。 復路馬立場での出発点呼後は神田大尉付いて行動するが、賽の河原猛吹雪見舞われ藤村曹長と共に凍死した藤村ふじむら曹長 演 - 一彦 伊東中尉江藤伍長神田大尉と共に行軍本番前調査同行し江藤伍長より紹介され田茂木野村長作右衞門より冬の八甲田様子についての説明を受ける。 結団式後は神田大尉が(行軍本番での)注意事項説明している横で、江藤伍長と共に行軍用品注文電話応対追われていた。 予備演習では神田大尉副官立ち位置で、指示復唱などを行った行軍本番での伊東中尉)。 雪中行軍隊の結団式後は、伊東中尉江藤伍長と共に編成外となる大隊本部随行中隊指揮権を持つ中隊長神田大尉の上もう一つ上部機関がくっつくこと)で指揮系統乱れるのでは」と神田大尉に不安を訴えた。だがその訴え山田少佐意向により退けられ、「大隊本部随行する総勢210名の大所帯編成」が決定し自分たちの意見上司退けられ不完全燃焼のまま行本番迎えてしまう。 雪中行軍本番では往路小峠大峠間で「田代方面への針路右手である」旨の指示神田大尉より受けた大峠での小休止時は「神田大尉殿は山田少佐殿を立てつつも必ず行軍成功させる」ことを信じ馬立場への出発直前に「大隊長殿の我田引水はちょっと気になるが、『進軍の腹』である中隊長殿は人のできたお方なので、この雪中行軍を必ず成功させる決心のようだ」と(「大隊長殿の我田引水やりにくいことになった。我々はこの先どうなるのか」と不安がる伊東中尉話した往路馬立場での小休止時は(神田大尉が鈴少尉率い小隊下士卒を「ソリ援護要員」として追加派遣し遅れているソリ到着を待つ中)「宿営手配のための先遣隊として、田代先着した旨を喇叭吹奏にて本隊知らせる」よう神田大尉より指示を受け、(「天候悪化により喇叭では連絡不可能の場合直ち伝令本隊帰らせる」と返答したのち)喇叭手含む14名の部下引き連れて田代先発する途中で暴風雪兆し察知すると「頭巾をかぶれ!。急げ!、嵐が来る!」と部下指示したが、先遣隊一行猛吹雪日没で道に迷ったため・目的地田代を見つけられず(方向感覚を失う「リングワンダリング」状態に陥り)、最後偶然にも(将校偵察出ていた神田大尉の後に続き伊東中尉高橋伍長援護していた)ソリ隊の最後尾合流ソリ後押しをしていた伊東中尉に「暗くなって道に迷い、風の乱れ方向が全くつかめず、どうしても田代への道がわからない」旨を報告した復路田茂木野向けて馬立場を出発後は神田大尉大峠方面)に付き賽の河原手前一瞬晴れ間から青森湾視認した。最期は(田茂木野へ向かう途中賽の河原猛吹雪呑み込まれ凍死するモデル藤本左近曹長谷川たにかわ曹長 演 - 森川利一 第五小隊所属行李輸送隊ソリ隊)としてソリを引く。大峠での小休止後に山田少佐が「各小隊ごとに出発用意」を下命したことに驚いていた。 村山むらやま伍長 演 - 緒形拳 第五中第二小隊所属雪中行軍結団式後に江藤伍長会い行軍本番での携帯食料保温材として古新聞風呂敷酒保売店)で購入したことを伝えた馬立場では夏に八甲田訪れたときに赤いツツジ咲いていたことを思い出していた。平沢第一露営地では、壕で猛吹雪かろうじてしのげる有難さ実感する次々と隊員落伍していく中、「俺は自分思い通りに歩く」と言い単独行動し、青森第五連隊でただ一人目的地であった田代温泉至った。「最後の生存者」として救助され生還果たした左腕凍傷失ったエンディングでは、老齢達した村山伍長左腕失ってをついて歩く場面がある。 モデル生存者一人である村松文哉伍長高橋たかはし伍長 演 - 海原俊介 第一小隊所属行軍往路では神田大尉命令により、伊東中尉と共に本隊より大幅に遅れていたソリ隊の援護」を担当ソリ最後尾ソリ後押ししているときに、道に迷っていた藤村曹長先遣隊発見している。 行軍復路田茂木野方面斥候として申し出て、「北西方面高地の偵察」を神田大尉に命ぜられ、「先遣隊馬立場へ至り仲間隊員引き続き田茂木野方面進出中」である旨を神田大尉倉田大尉報告する。この時、自分以外の田茂木野方面駒込川方向)を偵察していた渡辺伍率い先発隊4名は賽の河原付近凍死し最期自身藤村曹長と共に賽の河原で力尽き凍死したモデル高橋他一伍長渡辺わたなべ伍長 演 - 堀礼文 第二小隊所属行軍往路では「田代着いたら酒と温泉ありつける」ことを平山一等卒と共に期待していた。 復路では田茂木野方面斥候申し出て、「駒込川方面偵察」を神田大尉より命ぜられるが、偵察中に凍死したモデル渡辺幸之助軍曹江藤(えとう)伍長 演 - 新克利 中隊指揮所属雪中行軍事前調査で、神田大尉田茂木野村長である作右衛門引き合わせた。 雪中行軍隊の結団式では伊東中尉藤村曹長と共に上部組織である)大隊本部随行することで指揮系統乱れることの不安を抱いた小峠小休止中は、食糧を凍らせてしまった隊員自身食糧分け与えた往路では大峠から賽の河原への行軍中は前方偵察として先頭立った復路では、鳴沢息を引き取った長谷部一等卒看取った帰営中、賽の河原神田大尉から「先に田茂木野行き地元住民雇って雪中行軍隊の救助にあたる」ように命ぜられ、一人田茂木野目指した。後に大峠にて猛吹雪により瀕死の状態で直立していたところを救助隊三上少尉発見され救助された。このとき、五連隊雪中行軍隊遭難第一報伝えたモデル生存者一人である後藤房之助伍長平山(ひらやま)一等卒 演 - 下條アトム 行軍本番中渡辺伍と共に神田大尉無事に田代導いてくれ、田代着いた温泉入り一杯やれると期待したが、実際は(平沢第一露営地に掘った壕での露営などで意気消沈していた。 駒込川峡谷から脱出した後、尿意催した時には、既に手先凍傷かかっていたため、村山伍長手伝ってもらった村山伍長隊列から離れ一人田代向かって歩き始めた時に付き添ったが、途中で凍死したモデル古館要吉一等卒長谷部 善次郎(はせべ ぜんじろう一等卒 演 - 佐久間宏則 神田大尉従卒で、徳島隊の斉藤伍長の弟。幼少時代宮城県栗原郡築館町養子出され、「水呑み百姓の子だくさん」という環境で育つ。少な宮城育ったことから、怖さ知らないとして「雪中行軍隊に入ることを思いとどまる」よう斉藤伍長から心配されたが、「八甲田久々に兄(斎藤伍長)に合える」と期待し神田隊の一員として雪中行軍参加した小峠までの予備演習では好天恵まれたことから「まるでの中の遠足であった」と神田大尉述べた行軍本番では(壕を掘ることができなかった)鳴沢第二露営地で、神田大尉救出した兄(斉藤伍長)が曹長昇任する夢を見て寝言言い神田大尉叩き起こされている。その後鳴沢神田大尉が「天は我々を見放した」と叫んだ直後に力尽き凍死した所持していた銃は江藤伍長の手叉銃として雪上立てられた。後に、この場を徳島隊が通過した際に、斉藤伍長はここに弟が眠っていることを確信した小野中尉従卒 演 - 浜田宏小野中尉従卒で、平沢第一露営地では「指揮権神田大尉殿に戻してほしい」と不満を漏らしていた。

※この「雪中行軍隊」の解説は、「八甲田山 (映画)」の解説の一部です。
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