雪中行軍隊
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徳島(とくしま)大尉 演 - 高倉健、石井明人(幼少期の回想) 第一大隊第二中隊長。青森県南津軽郡石川町(現在の弘前市の一部)乳井出身。自宅が弘前市富田、養母が黒石市北田中に居住している。岩木山で雪中行軍の経験があり、冬山、寒冷地、積雪地における行軍を成功させるための様々な工夫を行う。これが「装備を軽くした少数精鋭編成」へ結びつき、第三十一連隊の八甲田山雪中行軍を一人の落伍者も出すことなく成功させることにつながった。日没時には現地の民家で宿営して寒さと暴風雪をしのぎ、睡眠および休憩時間・食事も十分確保して疲労による落伍を防ぐ工夫をした。 青森歩兵第五連隊の神田大尉とは、第四旅団司令部における「雪中行軍作戦会議」で「天候に恵まれた一度や二度の経験は何の役にも立たない」「悪天候など万一の事態に遭遇しても命を守る備えを確実にする」などの助言をしたり、自宅へ招いて岩木山雪中行軍の内容学習を行い、「大人数では指揮官の目が隅々まで行き届かず・隊列維持および指示命令&注意事項の伝達が困難となり遭難の危険性が高まるので・少人数の小隊編成で命令系統を一本化し、冬山の経験と知識が豊富で体力のある者のみを厳選した少数精鋭主義」「自分たちで装備・宿営用具(食糧・炊事道具・寝袋・燃料など)を運べば負担が増し行軍全体に遅れが出るので、装備は極力軽くする。宿営は原則民泊とし、食糧・燃料などの消耗品は宿営地で地元住民より提供してもらう」「吹雪の中では目標把握が困難で方位磁石や地図が役に立たないので、地元に土地勘がある案内人を雇う」「事前準備期間は十分確保し、特に寒さ対策を怠らない」「出発前および本番中は気象情報収集を怠らない。悪天候や日没で目的宿営地への到着が遅れそうな場合は出発地か前日の宿営地へ引き返す・または途中で雪濠を掘って露営するなど寒さをしのいで命を守る工夫をし、決して無理せず余裕ある行軍計画を立てる」「万一道に迷ったらむやみに動き回らず・雪濠を掘って露営するなど体力温存に努める。日没時も暗闇でむやみに動き回らずその場にとどまり、出発は翌朝の天候回復まで待つ。救助要請をした時は動き回らず、救助隊員に見つけてもらえるよう生存の意思表示をする」「暴風雪など天候の悪化が予想される場合は行軍自体を中止する、および途中で行軍日程を切り上げ引き返す勇気を持つ」といった雪中行軍の心構えを説いている。 一時は八甲田山での雪中行軍の中止を具申することも考えていたが、旅団長の実質的な命令、三十一連隊長と五連隊長の約束事から、八甲田山雪中行軍の徳島隊の指揮官として、「弘前出発後・小国~十和田湖~中里~三本木~増沢~八甲田~田茂木野~青森経由で弘前へ戻る10泊11日・全長240km行程」で雪中行軍を計画・実施する。行軍本番1か月前には経由地の町村役場へ「消耗品・食糧・宿営地の提供や案内人雇用などへの協力を求める手紙」を出すと共に、部下(佐藤一等卒と小山二等卒など)に対し「行軍経路の下調べ、現地での案内人手配、宿営地や糧食・消耗品の調達交渉、および凍傷や低体温症防止方法など・地元住民からの各種情報事前収集を年末年始休暇返上で行う」よう命じた。徳島隊結団式では隊を構成する27名全員が出席したうえで「水筒の水は(満水にせず)七分目まで入れ、絶えず動かしていれば凍らない。人間の体もそれと同じだ。たとえ小休止といえども足の指は靴の中で動かし、手袋をはめた指も必ず動かす」と行軍時における注意事項を訓示するなど、凍傷の危険性や、飲料水や糧食の凍結防止について十二分に説明を行った。本番1週間前には神田大尉に宛てた手紙を速達で出し、徳島隊の経路で困難な区間を明らかにしたうえで、五連隊の神田隊に「最も遭難の危険性が高い区間」を暗示した。 雪中行軍本番の1月20日、徳島隊は午前5時に弘前の屯営を出発し、軍歌の雪の進軍を斉唱するなどして隊の士気を高めた。隊員には「行軍中の勝手な行動の一切厳禁」「防寒着の装着などは自身(徳島大尉)の指示・命令が出てから行う」ことを徹底させた。凍傷・低体温症防止には足踏みと手指の摩擦や、足先保温のため藁の雪沓の使用・油紙で足を包み靴下に唐辛子をまぶす・厚手靴下を三重に履かせるなどの処置を行わせた。小国と切明(現在の平川市)で宿営・小休止をしたのち、白地山・元山峠経由で十和田湖畔の銀山(現在の秋田県鹿角郡小坂町)へ向かう際には暴風雪の兆しをいち早く察知し、耳当て着用・厚手手袋の二重着用・襟巻き(マフラー)を巻くことを隊員へ指示している。宇樽部(現在の十和田市)で宿営後、中里(現在の三戸郡新郷村)へ向けて犬吠峠を越える際には、隊員全員を荒縄で一列に結び、滑落と視界不良による落伍を防いだ。中里では案内人と別れたのちに、地元住民からの「家に泊まらないか」との誘いを断って集落近くの空き地に雪壕を掘り、一夜を明かす夜間耐雪訓練を実施している。三本木(現在の十和田市)到着時に予定通りであれば神田隊が三本木に到着しているはずだが、五連隊の本部にその報告が入っていないとの連絡を三十一連隊の門間少佐より(三本木の宿の主人を通じて)受け取るが、悪天候などで遅れることはあると考えて、自身は神田隊が消息を絶っているとは思っていなかった。次の宿営地である増沢でも神田隊の姿はなく、八甲田山への出発前に神田大尉を心配する。 八甲田山の増沢(現在の十和田市)から田代(現在の青森市)へ至る経路では、現地で雇った案内人に従って行軍し、田代温泉への道は猛吹雪で見つけられなかったものの、道中は雪壕による露営などで隊の損耗を抑えた。 田代出発直後に斎藤伍長が弟・長谷部善次郎一等卒の遺体を見つけ「弟の亡骸を背負って帰りたい」と懇願されると、「(亡き弟と一緒に帰りたい)気持ちはよく分かる。だがこの先・田茂木野まではまだまだ難関があるため、弟を背負った斎藤伍長が倒れればそれを助ける者もまた倒れ、我が三十一連隊は全滅する。弟の遺体は後日救助隊が収容に来るから、今は静かに眠らせておいてやれ」と慰留し「自隊の安全を最優先する」旨を強調。のちに参加者全員が長谷部一等卒の遺体に黙祷を捧げた。 一行が猛吹雪の八甲田を踏破し田茂木野村(現在の青森市)へ着くと(案内料を支払って案内人と別れたのち五連隊の捜索隊現地指揮本部へ立ち寄り)、「自隊(三十一連隊)は負傷のため三本木より弘前へ途中帰営させた松尾伍長を除く全員が猛吹雪の八甲田を踏破。鳴沢から賽の河原にかけて神田大尉を含む五連隊の隊員の複数の遺体を発見した」旨を五連隊捜索隊指揮官の木宮少佐へ報告。しかし、実際には神田大尉らの遺体は前日の時点で既に収容されており、田茂木野に設けられた「五連隊雪中行軍遭難犠牲者の遺体安置所」で(本来八甲田山中で会うはずだった)神田大尉の遺体と悲しみの対面をする形となった。 三十一連隊が八甲田雪中行軍を無事成功させた旨は「五連隊大量遭難」に霞み大きくは報じられなかったものの、その後の「寒地訓練確立と寒地対応装備の開発」へと活かされている。 モデルは福島泰蔵大尉。 田辺(たなべ)中尉 演 - 浜田晃 行軍本番中は徳島大尉の指示を復唱し、隊員に指示が行き届くようにした。 中里の集落では案内人を最後尾に置くことを上申するが、徳島大尉に却下されている。 高畑(たかはた)少尉 演 - 加藤健一 行軍本番前の「三十一連隊雪中行軍隊結団式」では、経路の事前調査と宿営地・案内人などの交渉を担当した佐藤一等卒と小山二等卒からの報告内容をメモする。 行軍本番では小国から琵琶の平を経て切明への行軍中「後尾に付け」と徳島大尉に命ぜられ、隊列の最後尾に付く。 船山(ふなやま)見習士官 演 - 江幡連 気象観測を担当する見習士官。銀山から宇樽部までの行軍中に実施した気象観測では「気温が6度も急降下し風も急に強まってきているので、これは本格的な大暴風雪の前兆ではないか」と徳島大尉に報告する。なお行軍中は「風向・風速を測るための吹き流し付き竹棒」と「積雪の深さを測る竹棒」をそれぞれ背嚢に固定すると共に、現在地の気温を測る温度計を携帯している(気温は「手元の温度計で測った温度」と「体感温度」の2種類を測定・報告)。また、足を捻挫した松尾伍長を背負う川瀬伍長の銃を持つように徳島大尉に命じられた。 長尾(ながお)見習士官 演 - 高山浩平 隊員の疲労度調査を担当する見習士官。 倉持(くらもち)見習士官 演 - 安永憲司 装備点検を担当する見習士官。宇樽部での宿営時は翌日に控えた犬吠峠越え行軍に備え、参加者全員が「濡れた軍服・下着・靴下・軍靴を干して囲炉裏の火で乾かすこと」と「かんじき・藁の雪沓・服装などの損傷の有無の点検」を自主的に励行したり、装備や服装に損傷があるときは新品を購入するなどした。 斉藤(さいとう)伍長 演 - 前田吟 歩測担当。青森第五連隊の長谷部善次郎一等卒の兄。 過去に徳島大尉の部下として、岩木山雪中行軍に参加した経験がある。弟・善次郎が幼い頃に宮城県の栗原郡築館町(現在の栗原市)へ養子に出されたことから、雪の怖さを知らないこと、五連隊の雪中行軍参加者が地元の青森ではなく、積雪量の少ない岩手・宮城の出身者で構成されていることから、八甲田山で遭難する危険性が高いと考えて、行軍本番前に青森にいる叔母へ、弟に八甲田雪中行軍に参加しないように伝言している。 行軍本番では歩測調査により、小休止場所・宿営地までの歩数を記録した。 中里から三本木への行軍中に、普段は切れることのない雑嚢の紐が切れ、このことで弟の死を確信した。後に、八甲田山で弟の凍死体を発見し、直接会って雪の怖さを伝えられなかったことを後悔し、徳島大尉に弟を背負って帰りたいと懇願するも、隊の安全を優先する徳島大尉に後日救助隊が収容に来ると諭され、その場に遺体を残して行軍を続けた。 松尾(まつお)伍長 演 - 早田文次 元山峠から銀山への行軍中、凍結していた下り坂で転倒し足を捻挫した。このため中里への宿営時は自分たちで掘った雪壕ではなく現地の民家へ泊まり、八甲田手前の三本木にて行軍隊より外され汽車(現在の青い森鉄道線と奥羽本線)で弘前へ帰営する。 川瀬(かわせ)伍長 演 - 吉村道夫 銀山から宇樽部への行軍中に捻挫した松尾伍長の背嚢などを持つと共に、自力歩行困難となってきた松尾伍長を背負うよう徳島大尉から命じられた。 佐藤(さとう)一等卒 演 - 樋浦勉 小山二等卒と共に行軍実施前の宿営地交渉と経路事前調査を年末年始の休暇返上で担当。佐藤一等卒は『「銀山の民宿経営者が三十一連隊の宿営を二つ返事で引き受けてくれた」旨と「銀山から宇樽部までは18 km。現地の積雪は約2 mあり、風はその日次第で今は何とも言えない」との情報を地元住民より得た』旨を徳島大尉へ報告する。三十一連隊への入営前に銀山で働いていた経験を活かし、行軍本番では銀山から宇樽部までの案内人を務めた。銀山で小休止中は「夏場に訪れた十和田湖の秀麗な湖面」を思い出していた。 加賀(かが)二等卒 演 - 久保田欣也 喇叭手。行軍では「気温が低く猛吹雪となっている八甲田山中でも喇叭の音色を遠くまで響かせられるか否かを試す」旨の宿題を徳島大尉より与えられた。宇樽部にて宿営中は喇叭を磨きながら「五連隊(神田隊)がもし今日1月23日に出発していたら猛吹雪に遭い、えらいことになっているのでは?」という会話を斉藤伍長、西海記者と交わした。この予感は的中しており、神田隊は田茂木野以降で猛吹雪に見舞われていた。 一行が犬吠峠を越えて中里の集落に入ると、徳島大尉の指示により先頭に立ち、喇叭を吹奏する。 小山(こやま)二等卒 演 - 広瀬昌助 佐藤一等卒と共に行軍実施前の宿営地交渉と経路の事前調査を担当。増沢出身という地の利を活かし、行軍本番では三本木から増沢までの案内人を務めた(増沢への宿営時は参加隊員で唯一「実家での宿泊」を許可された)。 徳島の従卒 演 - 渡会洋幸 佐藤一等卒・小山二等卒と共に「行軍本番前の経路事前調査と宿営地・案内人・消耗品・食糧調達交渉」を担当した。 曹長 演 - 原敬司 見習士官 演 - 北村博之、塚田一彦、広尾博、佐藤健二郎
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雪中行軍隊
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神田(かんだ)大尉 演 - 北大路欣也 第二大隊第五中隊長。雪中行軍隊の指揮官。秋田県出身で、自宅が青森市筒井にある。 平地での雪中行軍は実施経験があったものの、山岳地帯での行軍は今回の八甲田が初だった。そのため、雪中行軍前の予備演習実施を徳島大尉から勧められ、八甲田の小峠で「小隊編成かつソリ1台」による予備演習を実施。予備演習は好天であり、成果は行軍参加者の人選、隊の編制資料として活用した。 行軍は田代に宿営する1泊2日を予定したが、悪天候などによる日程順延を想定し、田代と増沢を宿営地とする2泊3日に変更。行軍終了後は三本木から汽車(現在の青い森鉄道線)で帰営するとしていた。しかし、隊員の大半が冬山に不慣れであったことに加え、猛吹雪などの悪天候を想定した雪壕を掘っての露営や背負子を用いた荷物運搬などを予備演習では実施しておらず、行軍本番は神田隊にとって2泊3日でも強行日程であった。 行軍本番前に部下の藤村曹長、江藤伍長、伊東中尉を率いて経路の事前調査を行い、江藤伍長から紹介された田茂木野村の村長・作右衞門に「冬の八甲田の様子と行軍を成功させるために必要な装備など」についての説明を受ける。また、汽車(現在の奥羽本線)で弘前の徳島大尉の自宅を訪ねて岩木山雪中行軍の情報収集を行い、八甲田雪中行軍の参考資料とした。 津村連隊長より「先に提出された徳島隊行軍計画書が受理され、三十一連隊の雪中行軍実施許可が出された」旨の電話連絡を受けると直ちに連隊長室へ赴き、(徳島隊の行軍計画書を山田少佐ら同席の下で閲覧したのち)「青森市内より田茂木野~田代~増沢経由の一本道で三本木へ向かう」とする自隊の行軍経路を津村連隊長・山田少佐らに説明。席上・津村連隊長より「本番での行軍隊編成はどうするか」について聞かれると、「(自分としては、徳島大尉より学んだ事項を踏まえて)極力少人数の小隊編成とし・道案内人も必要と考えるが、それらの可否は小峠までの予備演習結果をみて決める」と述べた。 だが、作右衞門の説明・徳島大尉宅での勉強会で学んだ内容・予備演習の成果は雪中行軍本番に活かされず、上官の第二大隊長・山田少佐には「(『冬の八甲田は白い地獄だ』との話を地元民より聞いたため)田茂木野で事前に案内人を頼んだ」旨を報告しなかった。のちに(徳島隊の行軍計画書閲覧時に「小隊編成の三十一連隊長距離行軍は強引かつ無謀すぎるから成功するとは思えない」と皮肉り、「小峠までの予備演習結果は良好だった」旨の報告を神田大尉より受けた)山田少佐が雪中行軍の目的を「小隊編成かつ長距離の三十一連隊に勝つため」へとすり替え・「大隊を繰り出しても八甲田へ行ける」として本番直前に(自身の小隊編成要望を一方的に退けて)行軍隊編成を急きょ変更。(自身の当初計画になかった想定外事項として)山田少佐率いる大隊本部が「編成外」として行軍に随行することとなり、本隊は「自身率いる五中隊を主力とした・五連隊全体が参加する中隊編成」へと変わったことで、行軍本番は予備演習時とは180度異なる条件となり・参加人数が「(自身が希望した当初の小隊規模から一方的に組み替えさせられ)行軍本隊196名・随行大隊本部員14名の計210名。(食糧・燃料・炊事道具・寝袋などを積んだ)行李輸送隊ソリ8台」へと大きく膨れ上がった。本番前は毎晩遅くまで自宅で行軍隊編成計画作成に没頭。徳島大尉より速達で届いた手紙も読み「徳島隊が1月20日に弘前を出発する」旨を知った。 本番前(予備演習終了後)に「(自分宛ての手紙が兄の斎藤伍長から届いたため)青森市内の叔母の家へ行きたいので外出許可がほしい」と申し出た従卒の長谷部一等卒には、外出許可を出す際「(行軍本番前調査に同行した)藤村曹長・江藤伍長・伊東中尉を中隊長室へ呼ぶ」よう言い、徳島隊出発前日に「本番での行軍隊編成最終決定版」を(藤村曹長・江藤伍長・伊東中尉に)説明した。席上「五連隊全体が行軍に参加する中隊編成は良いと思う。だが大隊本部随行は編成外の参加とはいえ、『中隊指揮権を持つ中隊長殿の上に・もう一つ上部機関がくっつく』ことになるから、船頭多くして船山に登る(神田中隊長殿・山田大隊長殿相互間で指揮権奪い合いが起きて命令系統が曖昧になる)事態を招きそうで不安だ」との訴えが藤村曹長らより出たが、徳島隊出発日が迫り自隊も本番まで時間がなかったことから「自隊の出発が遅れれば、事前に決めた『徳島隊と八甲田ですれ違う』約束を守れなくなる」と焦りの色を濃くし、山田少佐の言いなりになる形で「大隊長殿には大隊長殿のお考え(『小隊編成かつ長距離の徳島隊に勝ちたい』との強い思い)もあるようだ」として部下からの声を一切聞き入れず、「(自身が率いる五中隊が根幹の主力という柱を維持しつつ、たとえ2個や1個小隊になったとしても)行軍に最適となる参加者人選を急ぐ」よう藤村曹長らへ一方的に(トップダウンで)命じた。このため部下は「本番で指揮系統が乱れる(指揮官が事実上2名となり、山田大隊長殿・神田中隊長殿どちらの命令に従えば良いのか迷ってしまう)不安」と「自分たちの意見・要望が上司に受け入れてもらえない不満」がくすぶった(解消されない)まま、「不完全燃焼」・「(余裕のない準備期間からくる)事前準備不足」・「(結果として冬山の知識に乏しく、雪を軽視する隊員が大半を占めてしまう)急ごしらえの参加者選考」・「(雪中行軍するにはあまりにも多すぎる)過剰な参加人員と大荷物」状態で雪中行軍本番を迎える形となり、これが悲劇(世界最悪の大量遭難による五連隊全滅)のきっかけとなっていく。 こうして「五連隊雪中行軍計画書」は(徳島隊出発当日に)山田少佐によって津村連隊長へ提出・決裁され、雪中行軍実施許可が出された。連隊長室で行われた結団式では自身が(本隊に属する)各小隊長の名を・山田少佐が随行大隊本部員代表の名をそれぞれ読み上げ、津村連隊長より「行軍隊・随行員計210名の中から、たとえ一人といえども落伍者その他を出さぬよう万全の準備をすべし」との訓示を受ける。結団式後は「参加隊員の役割分担」・「凍傷を引き起こさないための注意事項(服装や携行品など)」の説明を部下(各小隊長と見習士官)に行った。 出発前夜は妻・はつ子に「携帯懐炉を余分に5・6日分用意する」よう要請。従卒の長谷部一等卒も(外出許可を得て叔母の家へ行ったものの兄・斎藤伍長とは会えなかったため、兄からの『雪中行軍に参加すべきでない』伝言を叔母より受け取ったのみで、その後やむを得ず足を運んだ)自身の家(神田大尉宅)で風呂を沸かす手伝いをしつつ・出発前夜まで行軍本番前準備をし、自身には「小峠(までの予備演習)はまるで雪の中の遠足だったから、雪中行軍なんて(本番も)大したことない。本番は八甲田で三十一連隊とすれ違う旨の噂を聞いたので、自分が行軍に出れば久々に兄(斎藤伍長)に会える」と述べて行軍参加に前向きな姿勢を示し、(「もし冬の八甲田が恐いと思うなら行軍に参加しなくても良い」と自身が言っても「兄は心配性なだけ。従卒の自分が行軍に出なければ中隊長殿に失礼になる」として)「自らの意思で行軍に参加する」旨を強調した。 雪中行軍本番当日(1月23日)、神田隊は午前6時55分に青森市内の屯営を出発したが、部下の不安は案の定的中。計画段階から大隊長の山田少佐と行軍隊編成規模・案内人雇用&大隊本部随行の是非・指揮権などを巡って対立した挙句、途中の田茂木野以降は(津村連隊長への行軍計画書提出時に「中隊指揮は一切神田大尉へ任せる」と述べ、本来は随行のみで指揮権を持たないはずの)山田少佐に全体の指揮権を奪われ、意見具申もほとんど却下。山田少佐の方針により「道案内人なしで(手元の地図と方位磁石を頼りに)猛吹雪の八甲田へ突入する」不完全燃焼状態での行軍となった。また(麓の田茂木野までとは天候が180度一変し猛吹雪となった)大峠では、永野三等軍医に「八甲田付近での天候悪化が予想されているため、行軍を中止し帰営すべき」と進言されるも(行軍続行を強力主張する)大隊本部の下士官(進藤特務曹長・今西特務曹長・田村見習士官・井上見習士官)に「天候が変わりやすい山の上は突然の吹雪が当たり前(日常茶飯事)。兵卒・下士卒と我々大隊本部員は防寒装備を十分整え保温もきちんとできているから、ここで行軍中止では雪中行軍の計画・準備が無駄になる。行軍がこれ以上続行不可能とは思えず、たとえ作戦遂行が不可能な状況に陥っても・それを可能にするのが我々の任務だ」と反対され、(自身が何も言えない不完全燃焼のまま)山田少佐に「悪天候でも予定通り田代に行く」と勝手に出発命令された。 ソリ隊は「(参加人数が大きく膨れ上がり)予備演習時とは比べ物にならない大量の重い荷物を引かされた」ため(ソリをなかなか前へ進められず・摩擦抵抗が増して大汗をかき)体力を消耗。屯営から平坦な道だった幸畑を過ぎた時点で既に本隊より遅れ始め、田茂木野以降での小休止時間が(ソリ隊到着を待つ関係で)予定より延びて「行軍全体の遅れ」と「田代到着前に日没を迎える事態」につながっていく。田茂木野を出発し小峠が近づくと・上り坂がきつくなり積雪量が倍増したことから、先頭かんじき隊による行軍経路開拓が困難となってソリの横滑りも頻発。ソリ隊は本隊より後方へ2km以上もずるずる引き離されて遅れがますます大きくなり(2時間以上にまで広がり)、1台80kg・総勢210人分の重い荷物を積んだソリ8台の牽引&後押しを担う隊員は(重い荷物と深い雪による摩擦抵抗でソリが前へ進まず)疲労が増していった(ソリ牽引時にかいた汗はやがて激烈な寒さで凍結し、濡れた下着を貫いた冷気により凍死する隊員が続出する)。 自身は大峠に近づいた時点で「遅れているソリを放棄し、荷物は各隊員に持たせたい。重いソリをこのまま動かすと中隊の動きが遅れる」旨の意見具申を山田少佐にしたものの、「今は難中だが、積雪の状況その他で楽になる可能性もある。ソリの放棄はいよいよ駄目な場合だ」と退けられてしまう。結局日没後に平沢手前で立ち往生するまで(本隊より援護班を送りつつ)重いソリを動かす形となり、ソリ隊員とその援護隊員は多大な負担を背負う羽目になる。 小峠で小休止後は江藤伍長を先頭に立たせて「前方偵察」を命令。自身も江藤伍長の後を追いつつ(猛吹雪の中で)手元の地図と方位磁石を確認し、「(田代方面への)針路は右手である」旨を藤村曹長へ指示。賽の河原が近づくと「これより賽の河原を一気に越え、中の森・按の木森を経て馬立場を目指す」旨を部下に告げて出発命令。途中では先頭のかんじき隊を交替させると共に、ソリ隊の遅れ(もともと割り当てていた1台につき4人・8台合計32人の行李輸送隊員のみではソリを前へ進められない事態)を察知し・大峠~賽の河原~馬立場間において中橋中尉率いる小隊へ「(遅れている)後方ソリ隊の援護に付く」よう命じた。だがソリ隊の遅れは回復せず(逆にますます大きくなり)、本隊の馬立場到着後に再度「2km以上も後ろにいて大きく遅れているソリ隊の援護」へ(第1陣の中橋小隊に加え)鈴森少尉率いる小隊と下士卒30人以上を(銃・背嚢などの手荷物をこの場に置かせ身軽にさせたうえで)ソリ援護班第2陣として追加派遣。同時に藤村曹長ら15名の隊員を(宿営を手配させるための)先遣隊として田代に向かわせたが、先発隊は猛吹雪と暗闇で道に迷い田代へたどり着けず、結局(伊東中尉と高橋伍長が援護していた)ソリ隊の最後尾へ合流。ソリ隊は(自身率いる中隊到着から)1時間後に馬立場へ着き本隊と合流できたものの、その先は(先頭かんじき隊がバラバラになって機能不全に陥り行軍経路開拓が困難となったため)平沢第一露営地手前で立ち往生してしまい、以降はソリを棄てて荷物を各隊員が持つ方針へ変更。「藤村曹長率いる先発隊からの田代到着連絡がまだない」ことを野口見習士官より知らされた山田少佐の命令で・自身が将校偵察として田代へ斥候しても先へ進めず(ソリ隊の大幅遅れで田代到着前に日没を迎え、山田少佐率いる本隊と大隊本部は先頭の自身に追いつけず立ち往生し)、ついには(想定外の行動となる)雪濠を掘っての途中露営を余儀なくされた。だが、山田少佐が(凍傷による全員の立ち往生を危惧し、「明るくなってから出発すべき」とする自身の反対を押し切って)夜明けを待たず深夜のうちに「帰営のため出発命令」したのをきっかけに、一行は(「睡眠不足と空腹」にあえいだまま)真っ暗な鳴沢付近で道に迷い(方向感覚を失う「リングワンダリング」状態に陥り)丸3日延々と彷徨った末、隊員は激烈な寒さ・極度の睡眠不足・空腹・疲労蓄積により雪上へ次々と倒れていく。山田少佐と進藤特務曹長の「帰営予定を変更し、『田代への道を知っている』と言った進藤特務曹長の案内で田代へ向かう」という妄言に翻弄され(自身が「地図上での判断では」と制止を試みるも失敗し、両人の主張に押し切られ)たため、一行が本来の針路を大きく外れて(擂り鉢状で脱出困難な)駒込川本流の谷底へ迷い込むと・直ちに地図で自隊の推定現在位置を確認し、「田代行きを名実ともに諦め、駒込川支流に沿って西へ進み馬立場へ向かう」方針へ転換。支流が行き止まりになると「中隊はこれより、この斜面を登る。進め」と命令を発したのち・崖を登る方法で谷底からの脱出を試みたが、その際半数以上の部下が滑落死してしまい、落伍(遭難死)する隊員の急増を招いてしまう(猛吹雪の中、雪氷に覆われ滑りやすい急斜面を登りきって駒込川から脱出するのに精いっぱいで部下・仲間を助ける余裕は一切なかったため、滑落した隊員は崖下への置き去りを余儀なくされた。さらにスコップを持った隊員までもが滑落死したため・鳴沢第二露営地以降では雪濠を掘れず、立ったまま吹きさらし状態での露営を余儀なくされたことから、崖登り後も激烈な寒さで落伍する部下が急増した)。 結果、山田少佐の我田引水による朝令暮改的な不適切命令が重なったことで隊は(指揮命令系統の一本化と参加隊員の意思統一が最後まで一度もできず、不完全燃焼も最後まで改善できないまま)馬立場から田代への道中(屯営から23km進んだ場所)で遭難し、部下が(極度の疲労・睡眠不足・空腹のため猛吹雪と激烈な寒さに耐えかね)次々と落伍。道に迷っただけでなく・屯営へも自力で帰れなくなり、最終的に199名の隊員が犠牲となる「史上&世界最悪の大量遭難」を招いてしまった。指揮権を奪われたとはいえ行軍の指揮官であったことから、遭難の責任を取るため、賽の河原で(「斥候となって田茂木野へ先行したのち、地元住民を雇って引き返し雪中行軍隊の救助にあたる」よう命じて)江藤伍長を田茂木野へ行かせた直後、舌を噛み切り自決。雪の八甲田で徳島大尉と再会する約束は果たせず幻に終わり、徳島大尉は神田大尉の変わり果てた姿を田茂木野の遺体安置所で目のあたりにする形となった。 モデルは神成文吉大尉。 伊東(いとう)中尉 演 - 東野英心 第五中隊第一小隊長。藤村曹長・江藤伍長と共に神田大尉の行軍本番前調査に同行し、田茂木野村の村長・作右衛門より八甲田の様子などについて説明を受けた。 雪中行軍隊の結団式後は先輩の藤村曹長・江藤伍長と共に、(上部組織である)大隊本部が随行することで指揮系統が乱れることの不安を抱いた。本番で不安は的中し、行軍に随行するだけのはずであった大隊の山田少佐が行軍隊に「出発用意」を命令したことに違和感を抱き、神田大尉に「随行の大隊本部が命令(本来指揮権を持たない山田大隊長殿が神田中隊長殿の指揮に干渉)とはどういうことか?」と確認したりした。 行軍本番中は神田大尉の副官の立ち位置で、指示の復唱により隊員へ指示を行き届かせた。気象観測担当も兼務したが、実際に気象観測をしたのは予備演習時のみで、本番では遅れていたソリ隊援護が主体の任務となった。往路・大峠で小休止し馬立場への出発直前には、山田少佐が勝手に出発命令したことで「やりにくいことになった。進軍はいいが、大隊長殿がああだと(中隊長・神田大尉殿より指揮権を奪って我田引水したら)この先どうなるのか」と藤村曹長に不安を訴えた(藤村曹長は「神田大尉殿は進軍の腹として、大隊長殿を立てながらも雪中行軍を必ず成功させる」と返答)。 往路・馬立場で小休止しソリ隊到着を待っていた時に日没を迎え「藤村曹長率いる先発隊からの田代到着連絡がまだない」ことを(野口見習士官からの報告で)知ると、小野中尉と共に「進路偵察・将校斥候の強力な先導部隊を出せば藤村曹長らと合流できるだろう」と神田大尉に提案。「まさかの(遅れているソリ隊援護という予定外の)行動で下士卒は疲れているから、一刻も早く田代に着けるようにしてほしい」と懇願もした。その後は鈴森少尉・高橋伍長らと共に田代へ向けて「本隊より大幅に遅れていたソリ隊の援護」を担い、(「大隊本部にソリの放棄を進言する。後尾を見てくる」と言ったあと高橋伍長に呼ばれ)その最後尾で藤村曹長率いる先発隊を発見。「暗くなって道に迷い、風の乱れで方向が全く分からず、どうしても田代への道を見つけられない」旨の返答・報告を藤村曹長より受けた。 平沢第一露営地の雪濠では、「大隊本部(山田少佐殿)のやり方には疑問を感じる。指揮権が神田大尉殿に戻ってほしい」と小野中尉に不満を漏らした。 復路・馬立場からの出発時には「生き残った隊員の中で最も元気そう」との理由から、倉田大尉より「(大量遭難を招いた責任を取らせるべく・山田大隊長殿をいかなる場合でも必ず生きて帰営させるため)隊列の最後尾に付く」よう命ぜられた。 復路・神田大尉麾下で大峠方面へ向かう集団と、倉田大尉麾下で駒込川方面を向かう集団を賽の河原で二分した際には倉田大尉の側に付き、山田少佐を含めた3名で駒込川方面を目指した。後、倉田大尉、山田少佐と共に救助隊に発見され救出された。 モデルは生存者の一人である伊藤格明中尉。 中橋(なかはし)中尉 演 - 金尾哲夫 第六中隊第二小隊長。田茂木野から小峠への往路において神田大尉より「先頭かんじき隊は交代。中橋小隊は後方ソリ隊の援護に付け」と命ぜられ、ソリ援護班第1陣として遅れがちだったソリ隊の援護にあたる。しかしソリ隊の遅れは回復せず、馬立場への本隊到着後も神田大尉の指示で(追加第2陣の鈴森少尉らと共に)「(2km以上も後方へ引き離された)ソリ隊援護」へ再度派遣されている。 小野(おの)中尉 演 - 古川義範 第七中隊第三小隊長。平沢第一露営地に掘られた雪壕の中で「指揮権を山田少佐殿に奪われても、神田大尉殿はこの雪中行軍を必ず成功させる」と隊を鼓舞。しかし、駒込川の峡谷から崖を登って脱出した後、卒倒し凍死した。 モデルは水野忠宜中尉。 鈴森(すずもり)少尉 演 - 荒木貞一 第八中隊第四小隊長。田代到着後は温かい酒と温泉にありつけることを励みに行軍するが、悪天候により予定通り到着できず、隊の士気の低下と過労を招いた。馬立場到着後に神田大尉より「荷物をこの場に置き、下士卒を率いて遅れているソリ隊を援護する」よう命ぜられている。 中村(なかむら)中尉 演 - 芹沢洋三 第一大隊および第三大隊選抜特別第五小隊長。中村の率いる小隊は五連隊で唯一「ソリ牽引(行李輸送)の担当外」とされていたが、行軍本番では神田大尉の命令により「深い雪に阻まれて遅れがちだったソリの援護」に駆り出される。 野口(のぐち)見習士官 演 - 山西道広 中隊本部所属。行軍本番では出発前点呼を担当。小休止場所や宿営地からの出発前に体調不良者・負傷者・行方不明者などがいないかの確認を各小隊長にさせ、「異常なし」との報告を各小隊長より受けると「行軍隊・随行員全員の出発用意が整った」旨を神田大尉へ報告する。 往路・馬立場にて小休止しソリ隊と合流後、山田少佐より「(藤村曹長率いる)設営隊からの(田代到着)連絡はまだないのか?」と聞かれると「まだのようだ」と返答した(これを受け山田少佐は、当日中に田代へ着くべく「神田大尉を将校偵察として田代へ斥候させ、本隊指揮を自ら代行する」方針を決定)。 復路・馬立場での出発前点呼後は神田大尉に付いて行動するが、賽の河原で猛吹雪に見舞われて藤村曹長らと共に凍死した。 藤村(ふじむら)曹長 演 - 蔵一彦 伊東中尉・江藤伍長・神田大尉と共に行軍本番前調査に同行し、江藤伍長より紹介された田茂木野村の村長・作右衞門より冬の八甲田の様子についての説明を受ける。 結団式後は神田大尉が(行軍本番での)注意事項を説明している横で、江藤伍長らと共に行軍用品注文の電話応対に追われていた。 予備演習では神田大尉の副官の立ち位置で、指示の復唱などを行った(行軍本番での伊東中尉)。 雪中行軍隊の結団式後は、伊東中尉・江藤伍長と共に「編成外となる大隊本部の随行(中隊の指揮権を持つ中隊長・神田大尉の上にもう一つ上部機関がくっつくこと)で指揮系統が乱れるのでは」と神田大尉に不安を訴えた。だがその訴えは山田少佐の意向により退けられ、「大隊本部が随行する総勢210名の大所帯編成」が決定し(自分たちの意見が上司に退けられ)不完全燃焼のまま行軍本番を迎えてしまう。 雪中行軍本番では往路・小峠~大峠間で「田代方面への針路は右手である」旨の指示を神田大尉より受けた。大峠での小休止時は「神田大尉殿は山田少佐殿を立てつつも必ず行軍を成功させる」ことを信じ、馬立場への出発直前に「大隊長殿の我田引水はちょっと気になるが、『進軍の腹』である中隊長殿は人のできたお方なので、この雪中行軍を必ず成功させるご決心のようだ」と(「大隊長殿の我田引水でやりにくいことになった。我々はこの先どうなるのか」と不安がる)伊東中尉に話した。 往路・馬立場での小休止時は(神田大尉が鈴森少尉率いる小隊と下士卒を「ソリ隊援護要員」として追加派遣し、遅れているソリ隊到着を待つ中)「宿営手配のための先遣隊として、田代へ先着した旨を喇叭吹奏にて本隊へ知らせる」よう神田大尉より指示を受け、(「天候悪化により喇叭では連絡不可能の場合、直ちに伝令を本隊へ帰らせる」と返答したのち)喇叭手含む14名の部下を引き連れて田代へ先発する。途中で暴風雪の兆しを察知すると「頭巾をかぶれ!。急げ!、嵐が来る!」と部下に指示したが、先遣隊一行は猛吹雪と日没で道に迷ったため・目的地の田代を見つけられず(方向感覚を失う「リングワンダリング」状態に陥り)、最後は偶然にも(将校偵察に出ていた神田大尉の後に続き、伊東中尉と高橋伍長が援護していた)ソリ隊の最後尾へ合流。ソリの後押しをしていた伊東中尉に「暗くなって道に迷い、風の乱れで方向が全くつかめず、どうしても田代への道がわからない」旨を報告した。 復路・田茂木野に向けて馬立場を出発後は神田大尉(大峠方面)に付き、賽の河原手前で一瞬の晴れ間から青森湾を視認した。最期は(田茂木野へ向かう途中)賽の河原で猛吹雪に呑み込まれ凍死する。 モデルは藤本左近曹長。 谷川(たにかわ)曹長 演 - 森川利一 第五小隊所属。行李輸送隊(ソリ隊)としてソリを引く。大峠での小休止後に山田少佐が「各小隊ごとに出発用意」を下命したことに驚いていた。 村山(むらやま)伍長 演 - 緒形拳 第五中隊第二小隊所属。雪中行軍の結団式後に江藤伍長に会い、行軍本番での携帯食料の保温材として古新聞や風呂敷を酒保(売店)で購入したことを伝えた。 馬立場では夏に八甲田を訪れたときに赤いツツジが咲いていたことを思い出していた。平沢第一露営地では、雪壕で猛吹雪をかろうじてしのげる有難さを実感する。次々と隊員が落伍していく中、「俺は自分の思い通りに歩く」と言い単独行動し、青森第五連隊でただ一人目的地であった田代温泉に至った。「最後の生存者」として救助され、生還を果たしたが左腕を凍傷で失った。 エンディングでは、老齢に達した村山伍長が左腕を失って杖をついて歩く場面がある。 モデルは生存者の一人である村松文哉伍長。 高橋(たかはし)伍長 演 - 海原俊介 第一小隊所属。行軍往路では神田大尉の命令により、伊東中尉らと共に「本隊より大幅に遅れていたソリ隊の援護」を担当。ソリ隊最後尾でソリを後押ししているときに、道に迷っていた藤村曹長の先遣隊を発見している。 行軍復路で田茂木野方面の斥候として申し出て、「北西方面高地の偵察」を神田大尉に命ぜられ、「先遣隊が馬立場へ至り、仲間の隊員が引き続き田茂木野方面へ進出中」である旨を神田大尉と倉田大尉に報告する。この時、自分以外の田茂木野方面(駒込川方向)を偵察していた渡辺伍長率いる先発隊4名は賽の河原付近で凍死し、最期は自身も藤村曹長らと共に賽の河原で力尽き、凍死した。 モデルは高橋他一伍長。 渡辺(わたなべ)伍長 演 - 堀礼文 第二小隊所属。行軍往路では「田代に着いたら酒と温泉にありつける」ことを平山一等卒らと共に期待していた。 復路では田茂木野方面の斥候を申し出て、「駒込川方面の偵察」を神田大尉より命ぜられるが、偵察中に凍死した。 モデルは渡辺幸之助軍曹。 江藤(えとう)伍長 演 - 新克利 中隊指揮班所属。雪中行軍の事前調査で、神田大尉を田茂木野村の村長である作右衛門と引き合わせた。 雪中行軍隊の結団式では伊東中尉・藤村曹長と共に(上部組織である)大隊本部が随行することで指揮系統が乱れることの不安を抱いた。 小峠で小休止中は、食糧を凍らせてしまった隊員に自身の食糧を分け与えた。 往路では大峠から賽の河原への行軍中は前方偵察として先頭に立った。復路では、鳴沢で息を引き取った長谷部一等卒を看取った。帰営中、賽の河原で神田大尉から「先に田茂木野へ行き、地元住民を雇って雪中行軍隊の救助にあたる」ように命ぜられ、一人で田茂木野を目指した。後に大峠にて猛吹雪により瀕死の状態で直立していたところを救助隊の三上少尉に発見され、救助された。このとき、五連隊雪中行軍隊遭難の第一報を伝えた。 モデルは生存者の一人である後藤房之助伍長。 平山(ひらやま)一等卒 演 - 下條アトム 行軍本番中は渡辺伍長と共に神田大尉が無事に田代へ導いてくれ、田代に着いたら温泉に入り一杯やれると期待したが、実際は(平沢第一露営地に掘った)雪壕での露営などで意気消沈していた。 駒込川の峡谷から脱出した後、尿意を催した時には、既に手先が凍傷にかかっていたため、村山伍長に手伝ってもらった。村山伍長が隊列から離れ、一人で田代へ向かって歩き始めた時に付き添ったが、途中で凍死した。 モデルは古館要吉一等卒。 長谷部 善次郎(はせべ ぜんじろう)一等卒 演 - 佐久間宏則 神田大尉の従卒で、徳島隊の斉藤伍長の弟。幼少時代に宮城県栗原郡築館町へ養子に出され、「水呑み百姓の子だくさん」という環境で育つ。雪の少ない宮城で育ったことから、雪の怖さを知らないとして「雪中行軍隊に入ることを思いとどまる」よう斉藤伍長から心配されたが、「八甲田で久々に兄(斎藤伍長)に合える」と期待し神田隊の一員として雪中行軍に参加した。 小峠までの予備演習では好天に恵まれたことから「まるで雪の中の遠足であった」と神田大尉に述べた。 行軍本番では(雪壕を掘ることができなかった)鳴沢第二露営地で、神田大尉を救出した兄(斉藤伍長)が曹長へ昇任する夢を見て寝言を言い、神田大尉に叩き起こされている。その後、鳴沢で神田大尉が「天は我々を見放した」と叫んだ直後に力尽き、凍死した。所持していた銃は江藤伍長の手で叉銃として雪上に立てられた。後に、この場を徳島隊が通過した際に、斉藤伍長はここに弟が眠っていることを確信した。 小野中尉の従卒 演 - 浜田宏昭 小野中尉の従卒で、平沢第一露営地では「指揮権を神田大尉殿に戻してほしい」と不満を漏らしていた。
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