弘前第八師団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 15:21 UTC 版)
友田(ともだ)少将 演 - 島田正吾 第四旅団長。 雪中行軍作戦会議において、弘前の徳島大尉と青森の神田大尉をそれぞれの指揮官に指名。八甲田を雪中行軍可能な山岳として手頃な場所であるとして、行軍の成功を期待していた。 神田隊が消息を絶ったことが判明した後、八甲田突入前であった徳島隊が突入中止になったか否か参謀長の中林大佐に尋ねるが、連絡手段がなく徳島隊が八甲田へ突入していると聞き、徳島隊の安否を気遣った。 モデルは友安治延少将。 中林(なかばやし)大佐 演 - 大滝秀治 第八師団参謀長。「日露戦争に備えての寒地教育訓練確立」を目的として、青森第五連隊と弘前第三十一連隊への「八甲田雪中行軍」を友田少将と共に提案した。ただし、雪中行軍自体は各連隊に計画策定から編成までを委ねる方針とした。雪中行軍自体は日清戦争により遼東半島で多数の兵士が凍傷にかかり、作戦行動に支障をきたしたことから、より極寒地で戦闘することになるであろうロシア軍対策として寒冷地訓練体制の充実が必要であったことから立案されている。そのため、雪中行軍ではありとあらゆる可能性と方法を研究せよと説明している。また今回の雪中行軍は「陸奥湾と津軽海峡がロシア軍により封鎖され、青森と八戸・弘前を結ぶ沿岸交通路が(艦砲射撃などの被害を受けて)万一断たれた場合、内陸部の八甲田がそれらを結ぶ唯一の経路となる。しかし積雪量の多い八甲田が冬期間物資輸送路として設定可能か否か当時は未知数だったので、五連隊と三十一連隊が小隊・中隊いずれかの編成を各自で組み、各隊に合った方法で冬期間の八甲田を踏破して(冬でも八甲田を)物資輸送経路にできるか否か試す」意味もあり、それについても作戦会議で説明。「雪や寒さとは一体何かを(冬の八甲田踏破を通じて)研究し、青森五連隊は五連隊らしく・弘前三十一連隊は三十一連隊らしく、この八甲田雪中行軍は必ず成功させるべし」と強調した。 三十一連隊から行軍計画書の提出を受けた際は「一切は徳島大尉の責任として、上官は余計な口出しをしない」ことを連隊に約束させ、門間少佐と児島大佐に環境を整えるよう上申を行った。 神田隊(五連隊)の消息不明が判明後、第八師団長も五連隊の雪中行軍隊遭難を憂慮していたことから、所属連隊に限らず第四旅団麾下の工兵、通信隊にいたるまで出動命令を出したほか、第八師団麾下で救助体制を採る方針を決定している。 後に、「その(12名いる生存者の)中には、今回の五連隊雪中行軍最初の目的地・田代にまで達している村山伍長がいる」として大元の行軍目的は達成され、五連隊行軍参加者210名が全滅の憂き目を免れたことに安堵していた。
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