弘前歩兵第31連隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 09:07 UTC 版)
「八甲田雪中行軍遭難事件」の記事における「弘前歩兵第31連隊」の解説
弘前ルートで入山した弘前歩兵第31連隊38名も、激しい風雪に悩まされたが、ほぼ全行程で案内人を立てたおかげで見事に踏破を果たした。 1902年(明治35年)1月20日弘前を出発。案内人は経由地で随時雇い直したので人物や人数は一定していない。1月27日朝、増沢を出発し田代を目指したが目標の小屋を発見できず、案内人の動揺を見て露営した。福島大尉の手記によれば、大きな枯木を中心とした直径4m深さ2mの雪壕を掘り、枯れ枝を薪として火を熾し、隊員は立ったまま焚き火で暖を取り餅を炙った。その間案内人には田代新湯への道を探させた。案内人は田代新湯を見付けられなかったが、代わりに空小屋を発見して戻ってきた。弘前隊は小屋に移動したが、全員が入れる広さがなく、2時間程交代で食事と休憩を取りつつ朝を待ち、不眠のまま鳴沢-田茂木野を経由し青森までの強行軍を行った。 弘前第31連隊が全員無事帰還できた理由は下記のようなものとされている。 天候不順で田代新湯にたどり着けないと判断するや、穴を掘ってビバークし、案内人が休憩のできる小屋を発見するまで露営地に留まっていたこと。 部隊を率いた指揮官・福島泰蔵大尉が、寒冷地での活動に際しての様々な準備(例:雪中行軍の研究という目的から、隊員の荷物を最小限とし、食糧や藁沓(わらぐつ)など消耗品の補給、宿泊を全部現地の民間に委ねたことなど)を重ねたこと。 連隊が比較的少人数で、最後まで統率が保たれていたこと。 隊員に地元青森の出身者が多く、選抜に当たっても応募者の体格や素質が充分考慮されたこと。 福島大尉が過去2年間にわたり、岩木山雪中行軍などを実施しており、露営を含め、雪中行軍を熟知していたこと。 1月29日に、弘前歩兵第31連隊は早朝に青森に到着。地元の歓迎を受けるが、公式には、この日に青森隊の遭難を知ることになった。1月31日、弘前に到着。予定よりも1日多い11泊12日の行程で、負傷のため中途で帰還した1名を除き全員が無事完遂した。
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