辛亥革命から山西派指導者へとは? わかりやすく解説

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辛亥革命から山西派指導者へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 07:35 UTC 版)

閻錫山」の記事における「辛亥革命から山西派指導者へ」の解説

1883年光緒9年)に山西省代州五台県河辺村高利貸兼ねた地主の家に生まれた1902年光緒28年)、19歳のときに太原にある国立山西武備学堂入学している。1907年光緒30年7月日本留学し東京振武学校士官学校予備校)を経て陸軍士官学校で学ぶ。日本留学中に孫文孫中山)と知り合い中国同盟会加入した弘前歩兵第31連隊勤務などを経て1909年宣統元年)に陸軍士官学校卒業して帰国している。 帰国後、1910年宣統2年)に朝廷から新軍43混成協第86標標統に任命された。しかし、その一方で同盟会の構成員として秘密裏革命派活動行っている。そして、1911年宣統3年)の辛亥革命の際に革命派率いて挙兵山西省内の清軍を撃破すると、山西軍政府大都督として推戴された。中華民国成立後1912年民国元年3月袁世凱から正式に山西都督任命されている。 都督就任する閻錫山山西省軍政を握る。当初閻錫山孫文革命派ではなく袁世凱らの北京政府支持した。しかし、1917年護法運動勃発後、湖南派遣した商震率い山西軍(晋軍)が護法運動派に殲滅されると、北京政府とは不即不離の関係をとるようになるまた、「保境安民」(山西モンロー主義)を唱えて内政力を入れ豊富な資源利用して工業化進め山西省模範省に育てた。こうして閻錫山山西派(晋系)の指導者として、中華人民共和国成立直前まで山西省をほぼ掌握し続けた

※この「辛亥革命から山西派指導者へ」の解説は、「閻錫山」の解説の一部です。
「辛亥革命から山西派指導者へ」を含む「閻錫山」の記事については、「閻錫山」の概要を参照ください。

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