辛亥革命から山西派指導者へ
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「閻錫山」の記事における「辛亥革命から山西派指導者へ」の解説
1883年(光緒9年)に山西省代州五台県河辺村で高利貸を兼ねた地主の家に生まれた。1902年(光緒28年)、19歳のときに太原にある国立山西武備学堂に入学している。1907年(光緒30年)7月に日本へ留学し、東京振武学校(士官学校の予備校)を経て陸軍士官学校で学ぶ。日本留学中に孫文(孫中山)と知り合い、中国同盟会に加入した。弘前歩兵第31連隊勤務などを経て、1909年(宣統元年)に陸軍士官学校を卒業して帰国している。 帰国後、1910年(宣統2年)に朝廷から新軍第43混成協第86標標統に任命された。しかし、その一方で、同盟会の構成員として秘密裏に革命派の活動を行っている。そして、1911年(宣統3年)の辛亥革命の際に革命派を率いて挙兵、山西省内の清軍を撃破すると、山西軍政府大都督として推戴された。中華民国成立後の1912年(民国元年)3月、袁世凱から正式に山西都督に任命されている。 都督に就任すると閻錫山は山西省の軍政両権を握る。当初の閻錫山は孫文ら革命派ではなく、袁世凱らの北京政府を支持した。しかし、1917年の護法運動勃発後、湖南に派遣した商震率いる山西軍(晋軍)が護法運動派に殲滅されると、北京政府とは不即不離の関係をとるようになる。また、「保境安民」(山西モンロー主義)を唱えて内政に力を入れ、豊富な資源を利用して工業化を進め、山西省を模範省に育てた。こうして閻錫山は山西派(晋系)の指導者として、中華人民共和国成立直前まで山西省をほぼ掌握し続けた。
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