辛亥革命、二次革命
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1910年(宣統3年)10月17日、武昌起義に呼応した江西省の革命派の招請を受けて、李烈鈞は江西に帰還する。10月23日、李烈鈞は中華民国九江軍政分府の総参謀長に推戴された。11月、李烈鈞は安徽省の革命派の要請を受けて自ら援軍に向かい、その結果、安徽都督に推戴された。11月下旬、北軍に包囲されて苦境に陥った武昌の黎元洪を救援に向かう。李烈鈞は黎元洪の救援に成功し、五省聯軍総司令兼中央軍総司令に任命された。 1912年(民国元年)、江西省議会は李烈鈞を江西都督に選出した。李烈鈞は江西省の軍事・政治の改革に取り組み、人心安定と近代化建設の上で成果を挙げた。しかし民国2年(1913年)、李烈鈞は孫文らと協議して二次革命(第二革命)を発動することになる。同年5月、李烈鈞は湖南都督譚延闓・安徽都督柏文蔚・広東都督胡漢民と連名で、善後大借款に反対する電報を袁世凱に向けて打った。これにより6月上旬、袁世凱は李烈鈞・柏文蔚・胡漢民の3都督を罷免し、あわせて軍を南進させて、南北両軍の戦いが始まる。緒戦では李烈鈞が善戦したが、物量で勝る北軍が次第に優勢となる。8月には李烈鈞の敗北が確定し、9月、李烈鈞は日本へ逃れた。その後しばらくは、欧州やアジアの各国を外遊した。
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辛亥革命、二次革命
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1911年(宣統3年)夏、馮麟閣、藍天蔚らと東北での蜂起を計画した。しかし同年10月10日に武昌起義が勃発すると、柏文蔚は南へ戻り、南京攻略戦に参加した。同年11月、柏は寧軍第1軍統制を号している。 1912年(民国元年)1月に南京で中華民国臨時政府が成立すると、3月、柏の軍は浦口駐屯の中華民国第1軍となり、第1師(駐浦口)、第4師(駐安徽臨淮関)、第9師(駐徐州)を隷下に置いた。4月、柏は安徽省の政治的混乱を鎮圧するために、軍を率いて安徽省に入る。そして孫毓筠の後任として署理安徽都督兼民政長に任命された。7月、柏は正式に安徽都督に任命され、9月に陸軍中将位を授与された。柏は、安徽省の統治者として、アヘン禁止などの民政改革に取り組んでいる。 1913年(民国2年)5月、柏文蔚は湖南都督譚延闓、江西都督李烈鈞、広東都督胡漢民と連名で、袁世凱に対して善後大借款に反対する電報を打った。これにより6月、袁は柏・李・胡の3都督を罷免し、あわせて軍を南進させた。7月、柏ら反袁派の都督は省の独立を宣言、挙兵した。これが二次革命(第二革命)である。しかし、まもなく反袁派は敗北し、柏は日本へ逃亡した。 1914年(民国3年)、中華革命党に入党する。1915年(民国4年)12月に護国戦争(第三革命)が勃発すると、柏文蔚は南洋で護国軍のために資金募集に従事した。1916年(民国5年)2月29日に帰国し、上海に到着した。
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