辛亥革命、袁との対立とは? わかりやすく解説

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辛亥革命、袁との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:35 UTC 版)

段祺瑞」の記事における「辛亥革命、袁との対立」の解説

1911年宣統3年10月辛亥革命勃発する袁世凱復権し、段祺瑞北京呼び戻され第2軍軍統任命された。段は湖北省前線向かい併せて湖広総督署理兼第1軍軍統抜擢され孝感駐留して革命派交戦する。しかし同年12月、袁と革命派との和平交渉が始まると、段は積極的な交戦控えようになった1912年民国元年初めになると、段は袁の内意を受ける形で北洋将領46人を率い実力行使ちらつかせながら宣統帝対し共和政体定立」を公然と要求する。これが決定打となる形で同年2月12日宣統帝退位追い込まれ3月10日袁世凱中華民国臨時大総統就任したこの際に、段は初代陸軍総長起用されている。 1913年民国2年7月段祺瑞一時的ながら国務総理代理就任し第二革命二次革命)の鎮圧事実上指揮した(まもなく陸軍総長復帰)。さらに同年末からは湖北都督河南都督兼任し白朗反乱鎮圧している。しかし三傑のうち馮国璋江南転出し王士珍実際兵権をあまり握らない役職に就く中、中央で段の保有する軍事力北洋軍の中でも絶大なものとなったこうした状況のため袁やとりわけ袁の取り巻きは段を警戒するようになり、二人間隙生まれたまた、へりくだることを知る馮などに比べて段はプライド高く両者の対立が一層こじれるようになったという指摘もある。 そのような中で1914年民国3年5月袁世凱は「海陸軍大元帥統率弁事処」を創設し陸軍部権力を同処に集中させる挙に出た。不満を抱いた段祺瑞は、自らの腹心陸軍部次長勤めていた徐樹錚陸軍部事務尽く委ね、更に翌1915年民国4年5月には病気称して辞職してしまう。また、袁が皇帝即位目論むと、段は非協力的姿勢保ち、袁にその撤回促す強力な圧力となった1916年民国5年3月護国戦争での劣勢に直面し皇帝即位撤回した袁の懇願もあり、段はようやく参謀総長として政界に復帰翌月には陸軍総長就任している。

※この「辛亥革命、袁との対立」の解説は、「段祺瑞」の解説の一部です。
「辛亥革命、袁との対立」を含む「段祺瑞」の記事については、「段祺瑞」の概要を参照ください。

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