辛亥革命、袁との対立
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1911年(宣統3年)10月、辛亥革命が勃発すると袁世凱は復権し、段祺瑞も北京に呼び戻されて第2軍軍統に任命された。段は湖北省の前線に向かい、併せて湖広総督署理兼第1軍軍統に抜擢され、孝感に駐留して革命派と交戦する。しかし同年12月、袁と革命派との和平交渉が始まると、段は積極的な交戦を控えるようになった。1912年(民国元年)初めになると、段は袁の内意を受ける形で北洋将領46人を率い、実力行使をちらつかせながら宣統帝に対し「共和政体の定立」を公然と要求する。これが決定打となる形で同年2月12日、宣統帝は退位に追い込まれ、3月10日、袁世凱が中華民国臨時大総統に就任した。この際に、段は初代陸軍総長に起用されている。 1913年(民国2年)7月、段祺瑞は一時的ながら国務総理代理に就任し、第二革命(二次革命)の鎮圧を事実上指揮した(まもなく陸軍総長に復帰)。さらに同年末からは湖北都督、河南都督も兼任し、白朗の反乱を鎮圧している。しかし三傑のうち馮国璋が江南に転出し、王士珍が実際の兵権をあまり握らない役職に就く中、中央で段の保有する軍事力は北洋軍の中でも絶大なものとなった。こうした状況のため袁やとりわけ袁の取り巻きは段を警戒するようになり、二人に間隙が生まれた。また、へりくだることを知る馮などに比べて段はプライドが高く、両者の対立が一層こじれるようになったという指摘もある。 そのような中で1914年(民国3年)5月、袁世凱は「海陸軍大元帥統率弁事処」を創設し、陸軍部の権力を同処に集中させる挙に出た。不満を抱いた段祺瑞は、自らの腹心で陸軍部次長を勤めていた徐樹錚に陸軍部の事務を尽く委ね、更に翌1915年(民国4年)5月には病気と称して辞職してしまう。また、袁が皇帝即位を目論むと、段は非協力的姿勢を保ち、袁にその撤回を促す強力な圧力となった。1916年(民国5年)3月、護国戦争での劣勢に直面し皇帝即位を撤回した袁の懇願もあり、段はようやく参謀総長として政界に復帰、翌月には陸軍総長に就任している。
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