辛亥革命から護国戦争まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 05:47 UTC 版)
1912年(民国元年)3月、唐継尭は滇軍を率いて貴州省に向かい、貴陽を占領した。唐は現地の支持勢力から貴州臨時都督に推薦され、同年5月、袁世凱の北京政府から正式に貴州都督に任命された。 1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)では、唐継尭は袁世凱を支持し、孫文らに与する四川の熊克武率いる軍を攻撃した。同年11月、唐は雲南省へ戻り、蔡鍔の後任として雲南都督に就任した。1914年(民国3年)、開武将軍(すなわち、雲南将軍)に任命されている。 しかし1915年(民国4年)12月、袁世凱が帝位につこうとすると、唐継尭はこれを不満に思う。そして、再び蔡鍔を迎え入れて雲南の独立を宣言し、討袁を目指すことを公にした。これにより、護国戦争が勃発し、唐は護国軍第3軍総司令となる。初期は苦戦したものの、世論の後押しもあって各省将軍が次々と反袁独立を表明していく。翌年3月22日に袁は皇帝即位の取消しに追い込まれ、さらに6月6日に病死した。蔡鍔も同時期に死去している。
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