辛亥革命とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/05 14:54 UTC 版)
1911年(宣統3年)10月、武昌起義が勃発すると、李燮和は帰国して革命派に参加した。李は黎元洪から長江下遊招討使に任命され、上海の陳其美を救援している。11月、陳が一時清軍に捕われると、李は即座に部隊を率いて陳を救出するなどし、滬軍都督府成立に大きく貢献した。さらに、武漢の革命派が窮地に陥ると、李は援鄂軍総司令として救援に向かった。 1912年(民国元年)、南京に中華民国臨時政府が成立すると、李燮和は光復軍北伐総司令に任命された。しかし、袁世凱が臨時大総統になるとともに辞任する。4月、黄興から長江水師総司令に任ぜられたが、これもまもなく辞任した。 以後、李燮和の政界への関与はさしたるものではなかった。しかし1915年(民国4年)、楊度からの要請に応じて、李は袁世凱の皇帝即位を支援する籌安会に加わっている。その一方で、蔡鍔の北京脱出を密かに支援して、これを護国戦争(第三革命)に参加させるなどの動きも見せており、李のこの時の行動の真意は定かではない。 結局袁世凱は、護国軍や反袁世論に屈する形で皇帝即位を取り消し、翌年6月に死去する。蔡鍔らへの支援や革命時代の功績により、李燮和が罪に問われることはなかった。それでも李は、慙愧に耐えないとして完全に隠棲し、二度と政治には関与しなかった。 1927年(民国16年)8月16日、故郷の安化県で死去。享年55(満53歳)。
※この「辛亥革命とその後」の解説は、「李燮和」の解説の一部です。
「辛亥革命とその後」を含む「李燮和」の記事については、「李燮和」の概要を参照ください。
- 辛亥革命とその後のページへのリンク