辛亥革命での失脚、晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 02:00 UTC 版)
同年9月、廕昌は訓練近畿陸軍各鎮大臣を兼任し、12月には陸軍大臣に任命された。翌1911年(宣統3年)5月には、慶親王奕劻の内閣で陸軍大臣に任じられ、7月、弼徳院顧問大臣も兼ねている。辛亥革命が勃発すると、廕昌は革命派の鎮圧を図った。しかし袁世凱が内閣を組織すると、その政敵であった廕昌は辞任に追い込まれた。 中華民国が成立すると、廕昌は北京政府外交部の高等外交顧問として招聘された。1912年(民国元年)12月25日、陸軍上将位を授与され、さらに総統府軍事処処長となる。1914年(民国3年)5月9日、総統府侍従武官長兼陸海軍大元帥統率弁事処弁事員に任ぜられ、同月26日、参政院参政も兼任している。1917年(民国6年)12月1日、廕昌は王士珍の後任として参謀総長に任命された。1919年(民国8年)1月11日には、中華民国大総統・徐世昌から衛侍武官長に任ぜられている。1923年(民国12年)10月14日、荘威上将軍位を授与された。1928年(民国17年)、病没。享年70。
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