プロデビュー、独立漫画派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 03:25 UTC 版)
小島は復員した加藤芳郎と再会し、山本一郎、六浦光雄らとともに若手投稿漫画家グループ「前衛漫画会」を結成。小島は草履に絵をつける内職のかたわら、「小島慈一郎」のペンネームで、『新報知』『新夕刊』など新興の新聞・雑誌に投稿を開始した。当時の新聞・雑誌は漫画を描く人材が払底しており、「持って行きさえすれば買ってくれた」という。前衛漫画会は主力の加藤・山本・六浦が早々にプロデビューを果たし、自然消滅。小島ら残されたメンバーは若手の研究団体「東京漫画人集団」に加入した。この頃、東京漫画人集団で知り合った関根義人の務める会社が刊行していた『スポーツ新聞』という名のスポーツ新聞の編集を手伝う。 小島は1947年、「東京漫画人集団」の解散を機に、発表の場を独占している状態にあった、既存の漫画家グループ「漫画集団」に対抗するため、関根義人、中島弘二、馬場辰夫らと若手の投稿漫画家によるグループ「独立漫画派」(独漫派)を結成。のちにやなせたかし、長新太、久里洋二、針すなおらが加入する。小島ら「独立漫画派」は当初、既存雑誌より原稿料が安く、不安定な経営状況だったいわゆるカストリ雑誌を発表の場としていた。彼らは『新漫画』という雑誌に連載の仕事を得たが、同誌が6号で廃刊になるといった経験をしている。彼らの才能に目をつけた、新太陽社の編集者・吉行淳之介が、自身が編集長をつとめていた『モダン日本』に独立漫画派の発表の場を与えたほか、個人的に生活を援助した。この頃小島は、杉浦幸雄の「風俗漫画」における女性の描写にあこがれ、美人画に傾倒しはじめており、吉行が小島の作風を理解し、「僕(引用注:小島)に初めて女を描かせた」という。 1949年、『新夕刊』で連載を持っていた関根の紹介で、同紙の編集部に就職し、記事のカット(挿絵)を担当した。同年、漫画『ネバさん』で連載デビュー。 独漫派は、吉行が移籍した三世社の『読切倶楽部』でも毎月依頼を受け、各メンバーが生活を安定させた。この時期の小島個人の依頼は挿絵が多く、「挿絵画家にされるのがいやでコマ漫画を描き始めた」。また小島は、伸び悩む独漫派の若手メンバーに発表の場を与えるために、同人誌『がんま』を創刊した。数千部印刷したが、あまり売れず資金に行き詰まり、7号で廃刊した。これは(生原稿を郵送で回覧する方式だった『墨汁一滴』のような形式のものを除けば)日本初の漫画同人誌とみなされている。
※この「プロデビュー、独立漫画派」の解説は、「小島功」の解説の一部です。
「プロデビュー、独立漫画派」を含む「小島功」の記事については、「小島功」の概要を参照ください。
- プロデビュー、独立漫画派のページへのリンク