プロデビュー前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 04:21 UTC 版)
「スティーヴ・ディッコ」の記事における「プロデビュー前後」の解説
除隊後、崇拝していたバットマンの作画家ジェリー・ロビンソン(英語版)がニューヨークの美術学校 で教鞭を取っていることを知った。ディッコは1950年にニューヨークに移り、復員兵援護法(GI法)による支援を受けて同校に入学した。ロビンソンは若き日のディッコを「非常な努力家で、描くことに打ち込んでいた」、また「原作者と組んでも良かったし、自分で話やキャラクターを作るのも上手かった」 と語っている。ロビンソンはディッコが翌年に奨学金を受けられるように取り計らい、「2年間にわたって、週に4回か5回、夜間に5時間ずつ教えた。濃密な時間だった」 という。ロビンソンは授業にコミックアーティストや編集者を招くことがあり、マーベル・コミックスの前身アトラス・コミックス(英語版)の編集者スタン・リーもその一人だった。ロビンソンによれば、リーがディッコの作品を見たのはそれが最初だった。 1953年初頭、ブルース・ハミルトンの原作によるSF作品 "Stretching Things" で初めてプロとしてコミックブックの作画を行った。同作はキー・パブリケーションズ(英語版)のインプリントであるスタンモーのために描かれたが、スタンモーからエイジャックス-ファレル(英語版)社に売却され、Fantastic Fears 第5号(発行日表示1954年2月)でようやく日の目を見た。実際に出版されたのはプロ第2作となる6ページの短編 "Paper Romance" の方が先だった。同作はキー社の別のインプリントであるギルモー・マガジンズが発行する Daring Love 第1号(1953年10月)に掲載された。 ほどなくしてディッコはジョー・サイモンとジャック・カービーのスタジオに職を見つけた。二人はいずれも原作者兼作画家で、すでにキャプテン・アメリカなどのキャラクターを生み出していた。背景のインク(ペン入れ)担当として仕事を始めたディッコは、以前から尊敬していたモート・メスキンと同僚になり、絵を学ぶようになった。「メスキンは素晴らしかった」とディッコは回想している。「あんな絵を易々と描けるなんて信じられなかった。構図は力強く、ラフなペンシル画でも完成されていて、ごちゃごちゃさせずにディテールを描く。本当に好きだった」 ディッコがアシスタントとして関わったことが確定している作品には、カービーがペンシル(下絵)を描き、メスキンがディッコとともにインカーを務めた Captain 3-D 第1号(1953年12月、ハーヴェイ・コミックス(英語版))がある。ディッコが自身でペンシルとインクを行った第3作 "A Hole in His Head" は、サイモンとカービーのクレストウッド社(英語版)のインプリントであるプライズ・コミックスが出していた Black Magic 第4シリーズ3号(1953年12月)に掲載された。 後年まで続くチャールトン・コミックスとの関係はこのころに始まった。コネチカット州ダービーに位置するチャールトンは、歌詞の雑誌で知られる出版社の低予算部門だった。第1作となったのは The Thing! 第12号(1954年2月)で、ディッコは表紙のほか8ページの吸血鬼もの "Cinderella" を描いた。同社ではその後、1986年の倒産まで断続的にSF・ホラー・ミステリ作品を描き続けることになる。また Space Adventures 第33号(1960年3月)では原作者ジョー・ギルとともにキャプテン・アトム(英語版)を生み出した。 1954年の半ば、結核を患ったためチャールトンでの活動ばかりかコミックの仕事一切を休止してジョンズタウンの実家で療養した。
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