プロデビューと不遇の時代とは? わかりやすく解説

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プロデビューと不遇の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:23 UTC 版)

浜田省吾」の記事における「プロデビューと不遇の時代」の解説

1974年1月単身上京しCBSソニーディレクターになっていた蔭山の自宅訪ね先のデモテープ聞いてもらう。浜田としてはこれでダメなら後がない思いつめての上であった。蔭山は制作でまだ3ケ月新米ディレクターで、自分手掛けられるアーティスト探し始めていた矢先で、「二人の夏」に可能性感じその場会社電話掛け合い愛奴デビューさせる方向決まった。話も大きくなり、六本木行われた愛奴オーディションには、CBSソニーから酒井政利20人、ユイ音楽工房から吉田拓郎後藤由多加5、6人、ホリプロから川瀬泰雄らが集まった一週間後、蔭山が吉田拓郎会い愛奴バック・バンドでの起用頼み込む吉田拓郎1974年ツアーバック・バンドザ・バンド務めることがほぼ決まっていたが、ボブ・ディラン全米ツアー再開で、ザ・バンド帯同決まりキャンセルされ代わりにポコ推薦されたが、後藤由多加断り愛奴起用された。 吉田拓郎の春と秋の全国ツアーバック・バンド愛奴として参加ドラム経験は3ヶ月程しかなかったが、必死練習してツアー間に合わせた拓郎バックバンドとして何度か『ミュージック・フェア』などテレビにも出演した。ただし、演奏技術問題からツアーでの「落陽」演奏メニューから外され拓郎生ギター弾き語りコーナー「落陽」歌ったツアー中休み7月発売されよしだたくろうかまやつひろしシングルシンシア」のB面竜飛崎」は愛奴演奏である。しかし、8月レコーディングされた拓郎アルバム今はまだ人生を語らず』(12月発売)は、全てスタジオ・ミュージシャンによるレコーディングとなった拓郎事務所であるユイ音楽工房所属する話もあったが、ユイからは別のバンドデビューすることがすでに決まっていて話が立ち消えになった。それで蔭山がホリプロディレクターだった川瀬泰雄愛奴紹介し井上陽水ホリプロ離れた時期でもあり、次のロック系アーティスト探していたホリプロ所属決まったこの年22歳最後の日作った曲が、後のソロ・デビューシングル「路地裏の少年」。 1975年5月1日愛奴としてアルバム愛奴』とシングル二人の夏」でレコード・デビュー当時CBSソニーでは同社始まって以来の大プロモーション行い浅田美代子の「赤い風船」(売上80万枚)を上回る100万上のセールス見込んでいたというが、実際には全く売れず惨敗という結果であった荻窪ロフト等を拠点ライブ続けたが、同じCBSソニーセンチメンタル・シティ・ロマンスエレックレコードシュガー・ベイブとともにシティ・ポップ前面押し出したため、ロック・フェスティバルその3組が出ると「お前らみたいな軟弱なロック帰れ!」などと野次られ、生卵やらトマト飛んで来たという。「二人の夏」はウェストコースト風のサウンドだったのだが、メンバーそれぞれの音楽志向バラバラ愛奴にはスタイル無くバンド内での自分存在や、シンガーソングライターへの憧れもあり、7月26日日比谷野音開催された「サマーロックカーニバル」の出演最後に9月愛奴脱退。「二人の夏」はその後毎年夏になるとラジオリクエストが急増した愛奴の全シングルA面浜田手掛けており、当時からソングライティング意欲素質備えていた。愛奴脱退後音楽活動続けながらウェイターなどのアルバイトもしていた。ぼんやりと就職雑誌眺めることもあったという。 1976年4月21日アルバム生まれたところを遠く離れて』とシングル路地裏の少年」でソロデビュープレス3,000ソロライブ同年4月5日、「渋谷屋根裏」。ロック志向自身にとっては不本意ながら予算都合上生ギター1本のスタイル全国ライブ巡業開始直後矢沢永吉のフィルムコンサートの前座務めたまた、アイドル歌手時代竹内まりやジョイント・コンサート行っている。また地方バンド合体してステージこなしたり、歌わせてもらえる所ならどこでも、レコード店店頭はもちろん、スーパーマーケット催し果ては演歌流しのようにバーカウンター中でも歌った弾き語り時代浜田ライブハウスでの集客期待できず、音楽関係者関心を寄せる者はいなかったといわれるこの頃全国巡業での観客数十人から数百程度で、描いた夢に程遠かったソロ活動を行う浜田に前バンド仲間町支寛二合流同年12月愛奴解散している。 1978年9月21日3rdアルバムIlluminationリリースジャケット写真京王プラザホテル部屋だが、当時羽根木公園近くアパート住んでいた。オリコンチャート最高66位。当時苦悩綴った「ミッドナイト・ブルートレイン」は、福山雅治2015年アルバム魂リク』でカバーしている。 1970年代レコード会社意向もあって、「ポップなメロディーメイカー」としての曲作り迫られる当時制作サイドAOR代表されるような都会的ポップなソングライターとして開花させようとしていた。本人変わらずロック志向だったものの、周り言われるがまま作家的な曲作り続ける。しかし、セールスには恵まれず苦悩挫折の中で精神的に落ち込んでいき、「曲は書けるが詞が全く書けない失語症のような状態」に陥る1979年5月21日職業作詞家半数上作詞を手掛けた4thアルバムMIND SCREEN発表。本アルバムからディレクターが蔭山敬吾か須藤晃に変わる。プレス1万この頃観客動員300人~400程度。なかなかブレイク至らず1978年から始まった「ザ・ベストテン」などで、後輩原田真二世良公則&ツイストらがブレイクする中、「あー、俺の時代はやっぱ来ないまま終わるのかなあ」と感じる。 こうした経緯から、初期の作品に対して、あまり良い印象がないことを隠そうとしない。「5目までのアルバム全部廃盤にして欲しい」と語ったこともある。特にサウンド面で納得いっていないらしく、1980年代以降にほとんどの楽曲リメイクしている。 ちなみに1978年25歳のときに結婚している。自身レコード売上による印税収入微々たるものだったため、他の歌手への楽曲提供による収入をもとに、婚約指輪結婚式新婚旅行資金充てたという。浜田にとって初めての海外旅行ハワイ行っている。 1979年7月1日日清カップヌードルCMソングとして書いたシングル風を感じて」が、折からのニューミュージック・ブームに乗り、初のスマッシュ・ヒットオリコン最高25位、売上10万)。今でこそカップヌードルCMというメジャーな感じがあるが、当時は「エー!?みたいな印象だったという。このヒット機会に、自身やりたい音楽表現することを決意する。なお、この関係で『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)や、日清食品スポンサーだった『ヤングおー!おー!』(毎日放送)の公開放送出演している。この時のことを後のインタビュー述べているが、「朝から音リハ・カメリハを2時間待ってもう一回何度も繰り返しワンハーフ(1番とサビ一つの2分くらい)を歌うための拘束時間10時間ぐらいだった」という。 1979年12月5日5thアルバム君が人生の時…リリース。「風を感じて」のスマッシュ・ヒットもあり、10万ヒットコンサートツアー始められるようになり、本数増え、ホールコンサートとしては初め満員記録する

※この「プロデビューと不遇の時代」の解説は、「浜田省吾」の解説の一部です。
「プロデビューと不遇の時代」を含む「浜田省吾」の記事については、「浜田省吾」の概要を参照ください。

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