プロデビューと不遇の時代
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「浜田省吾」の記事における「プロデビューと不遇の時代」の解説
1974年1月、単身で上京し、CBSソニーのディレクターになっていた蔭山の自宅を訪ね、先のデモテープを聞いてもらう。浜田としてはこれでダメなら後がないと思いつめての上京であった。蔭山は制作でまだ3ケ月の新米ディレクターで、自分で手掛けられるアーティストを探し始めていた矢先で、「二人の夏」に可能性を感じ、その場で会社に電話で掛け合い愛奴をデビューさせる方向が決まった。話も大きくなり、六本木で行われた愛奴のオーディションには、CBSソニーから酒井政利ら20人、ユイ音楽工房から吉田拓郎、後藤由多加ら5、6人、ホリプロから川瀬泰雄らが集まった。一週間後、蔭山が吉田拓郎に会い、愛奴のバック・バンドでの起用を頼み込む。吉田拓郎の1974年ツアーのバック・バンドはザ・バンドが務めることがほぼ決まっていたが、ボブ・ディランの全米ツアー再開で、ザ・バンドの帯同が決まりキャンセルされ、代わりにポコを推薦されたが、後藤由多加が断り、愛奴が起用された。 吉田拓郎の春と秋の全国ツアーのバック・バンドに愛奴として参加。ドラム経験は3ヶ月程しかなかったが、必死で練習してツアーに間に合わせた。拓郎のバックバンドとして何度か『ミュージック・フェア』などテレビにも出演した。ただし、演奏技術の問題からツアーでの「落陽」は演奏メニューから外され、拓郎は生ギターの弾き語りコーナーで「落陽」を歌った。ツアー中休みの7月に発売されたよしだたくろう・かまやつひろしのシングル「シンシア」のB面「竜飛崎」は愛奴の演奏である。しかし、8月にレコーディングされた拓郎のアルバム『今はまだ人生を語らず』(12月発売)は、全てスタジオ・ミュージシャンによるレコーディングとなった。拓郎の事務所であるユイ音楽工房に所属する話もあったが、ユイからは別のバンドがデビューすることがすでに決まっていて話が立ち消えになった。それで蔭山がホリプロのディレクターだった川瀬泰雄に愛奴を紹介し、井上陽水がホリプロを離れた時期でもあり、次のロック系のアーティストを探していたホリプロに所属が決まった。この年22歳の最後の日に作った曲が、後のソロ・デビューシングル「路地裏の少年」。 1975年5月1日に愛奴としてアルバム『愛奴』とシングル「二人の夏」でレコード・デビュー。当時、CBSソニーでは同社始まって以来の大プロモーションを行い、浅田美代子の「赤い風船」(売上80万枚)を上回る100万枚以上のセールスを見込んでいたというが、実際には全く売れず惨敗という結果であった。荻窪ロフト等を拠点にライブを続けたが、同じCBSソニーのセンチメンタル・シティ・ロマンス、エレックレコードのシュガー・ベイブとともにシティ・ポップを前面に押し出したため、ロック・フェスティバルにその3組が出ると「お前らみたいな軟弱なロックは帰れ!」などと野次られ、生卵やらトマトが飛んで来たという。「二人の夏」はウェストコースト風のサウンドだったのだが、メンバーそれぞれの音楽志向がバラバラで愛奴にはスタイルが無く、バンド内での自分の存在や、シンガーソングライターへの憧れもあり、7月26日、日比谷野音で開催された「サマーロックカーニバル」の出演を最後に9月、愛奴を脱退。「二人の夏」はその後も毎年夏になるとラジオリクエストが急増した。愛奴の全シングルA面は浜田が手掛けており、当時からソングライティングの意欲や素質を備えていた。愛奴脱退後は音楽活動を続けながらウェイターなどのアルバイトもしていた。ぼんやりと就職雑誌を眺めることもあったという。 1976年4月21日にアルバム『生まれたところを遠く離れて』とシングル「路地裏の少年」でソロデビュー。プレス3,000枚。ソロ初ライブは同年4月5日、「渋谷屋根裏」。ロック志向の自身にとっては不本意ながら、予算の都合上、生ギター1本のスタイルで全国ライブ巡業を開始。直後に矢沢永吉のフィルムコンサートの前座を務めた。また、アイドル歌手時代の竹内まりやとジョイント・コンサートも行っている。また地方のバンドと合体してステージをこなしたり、歌わせてもらえる所ならどこでも、レコード店の店頭はもちろん、スーパーマーケットの催し、果ては演歌の流しのようにバーのカウンターの中でも歌った。弾き語り時代の浜田はライブハウスでの集客も期待できず、音楽関係者に関心を寄せる者はいなかったといわれる。この頃の全国巡業での観客は数十人から数百人程度で、描いた夢には程遠かった。ソロ活動を行う浜田に前バンド仲間の町支寛二が合流、同年12月に愛奴は解散している。 1978年9月21日、3rdアルバム『Illumination』リリース。ジャケット写真は京王プラザホテルの部屋だが、当時は羽根木公園近くのアパートに住んでいた。オリコンチャート最高66位。当時の苦悩を綴った「ミッドナイト・ブルートレイン」は、福山雅治が2015年のアルバム『魂リク』でカバーしている。 1970年代はレコード会社の意向もあって、「ポップなメロディーメイカー」としての曲作りを迫られる。当時の制作サイドはAORに代表されるような都会的でポップなソングライターとして開花させようとしていた。本人は変わらずロック志向だったものの、周りに言われるがまま作家的な曲作りを続ける。しかし、セールスには恵まれず、苦悩と挫折の中で精神的にも落ち込んでいき、「曲は書けるが詞が全く書けない失語症のような状態」に陥る。1979年5月21日、職業作詞家が半数以上作詞を手掛けた4thアルバム『MIND SCREEN』発表。本アルバムからディレクターが蔭山敬吾から須藤晃に変わる。プレス1万枚。この頃の観客動員は300人~400人程度。なかなかブレイクに至らず、1978年から始まった「ザ・ベストテン」などで、後輩の原田真二や世良公則&ツイストらがブレイクする中、「あー、俺の時代はやっぱ来ないまま終わるのかなあ」と感じる。 こうした経緯から、初期の作品に対して、あまり良い印象がないことを隠そうとしない。「5枚目までのアルバムは全部廃盤にして欲しい」と語ったこともある。特にサウンド面で納得がいっていないらしく、1980年代以降にほとんどの楽曲をリメイクしている。 ちなみに、1978年、25歳のときに結婚している。自身のレコード売上による印税収入は微々たるものだったため、他の歌手への楽曲提供による収入をもとに、婚約指輪や結婚式、新婚旅行の資金に充てたという。浜田にとって初めての海外旅行でハワイに行っている。 1979年7月1日、日清カップヌードルのCMソングとして書いたシングル「風を感じて」が、折からのニューミュージック・ブームに乗り、初のスマッシュ・ヒット(オリコン最高25位、売上10万枚)。今でこそカップヌードルのCMというメジャーな感じがあるが、当時は「エー!?」みたいな印象だったという。このヒットを機会に、自身のやりたい音楽を表現することを決意する。なお、この関係で『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)や、日清食品がスポンサーだった『ヤングおー!おー!』(毎日放送)の公開放送に出演している。この時のことを後のインタビューで述べているが、「朝から音リハ・カメリハを2時間待ってはもう一回と何度も繰り返し、ワンハーフ(1番とサビ一つの2分くらい)を歌うための拘束時間は10時間ぐらいだった」という。 1979年12月5日、5thアルバム『君が人生の時…』リリース。「風を感じて」のスマッシュ・ヒットもあり、10万枚のヒット。コンサートツアーも始められるようになり、本数も増え、ホールコンサートとしては初めて満員も記録する。
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