アイドル歌手時代
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当初は演歌歌手としてデビューする予定で、演歌歌手としてのボイストレーニングを重ね、デビューに向けて順調に歩み続けていた。しかし、幻のデビュー曲となった「雪国」のレコーディングの段階に入った頃、「16歳の長山にはまだ演歌は早すぎる」との見方が事務所スタッフ達の中で強まったため路線を急遽変更し、1984年4月に女性アイドル歌手として「春はSA-RA SA-RA」でデビューした。その時のキャッチフレーズは『ぼくの青春(とき)をとめる、少女がいた』だった。NHK「レッツゴーヤング」のサンデーズのメンバーとして1985年4月から 1986年4月までの1年間活動。番組内では5枚目のシングル 「ゴールドウィンド 」が レッツヤンオリジナルとして1985年の夏に歌われた。 アイドル歌手としてその後何枚かレコードを発売するも、しばらくはセールス的に伸び悩んだ。1986年5月、黛ジュンのカヴァー曲「雲にのりたい」がスマッシュ・ヒット。同年10月にはバナナラマの『ヴィーナス』 をカヴァーしたシングル『ヴィーナス』が自身初のオリコンチャート10位を獲得。同曲は、その後も翌1987年に掛けてロングヒットとなり、代表曲となると同時にブレイクを果たした。 アイドル歌手時代には「ヴィーナス」「ユア・マイ・ラヴ」「悲しき恋人たち」「ハートに火をつけて」「反逆のヒーロー」の5曲がオリコントップ10入りした。
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アイドル歌手時代
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女優として最初の仕事、グリコ『プリッツ』(1987年)のTV-CF出演を皮切りに、『ガキ大将がやってきた』(1987年、TBS系)でドラマデビュー。その後、『独眼竜政宗』(1987年、NHK)、『太陽の犬』(1988年、日本テレビ系)などに出演。また、1988年8月には東芝EMIより『レースのカーディガン』で歌手デビューし、歌番組やバラエティ番組などにも多く登場した。 CDにおいては、1990年6月に5thシングル『瞳のダイアリー』、7月にはアルバム『ARE YOU READY?』のリリースを最後に、9月にミュージック・ビデオクリップ集、10月にビデオ・シングル・ディスク(VSD)を発売し、アイドル歌手活動を実質的に終了させた。現役時代には1枚もベストアルバムは発売されなかったが、同年11月には東芝EMIの企画盤ベストアルバム『ベストナウ』を発売した。
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アイドル歌手時代
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1979年12月、芸映プロが自社の看板スターである西城秀樹の名を冠して主催した新人発掘コンテスト「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」に応募。河合がオーディションを知ったのは締切の直前で、応募書類とデモテープを作成して送ったのは締切前日だった。オーディションの選考過程も紙一重で、大本恭敬の「理想の声に近づく本」によれば、大阪の地区予選も一旦は最終審査に残らず、当初の定数1名に対して特別に2人目の代表として選出された(最初に選考され、河合と共に決勝大会に進んだもう一人の大阪代表は後の小林千絵)。翌1980年3月16日に中野サンプラザで開催された決勝大会で優勝する。オーディション応募テープでは杏里の「オリビアを聴きながら」を、決勝大会では石野真子の「春ラ!ラ!ラ!」を歌った。 同月末に上京して歌レッスンを受けた後、1980年6月1日に「大きな森の小さなお家」で「西城秀樹の妹」という触れ込みとともに、アイドル歌手としてデビュー。この過程で明治大学付属中野高校定時制に編入し、後に卒業した。 なお、歌手デビュー当時のキャッチフレーズは「ほほえみさわやか カナリー・ガール」であった。2枚目のシングル「ヤング・ボーイ」がヒットとなり複数の音楽祭で新人賞を受賞する。 デビュー2年目の1981年10月5日16時頃、NHKホールでの『レッツゴーヤング』のリハーサル中、誤って4m下の迫りに転落し第一腰椎圧迫骨折の重傷を負う。約2ヶ月間の療養の後、同年11月30日放送の『夜のヒットスタジオ』より復帰を果たす。同年12月31日の第32回NHK紅白歌合戦に「スマイル・フォー・ミー」で初出場しトップバッターを務めた。翌年4月頃まで療養のためにコルセットを腰に装着して芸能活動を行う。NHK紅白歌合戦に初出場した際は、転落事故からの復帰直後で、かつ事故現場のNHKホールだったが、本人によればリハーサルは恐怖感が先に立ったものの、本番の出番寸前に不安や緊張が全て消えたという。 1983年12月6日より盲腸の摘出手術で東京・渋谷病院に入院し、同年12月14日に退院した。12月18日まで休養し、翌12月19日の「夜のヒットスタジオ」で復帰を果たした。 歌唱中、マイクロフォンは左手で持つことが多かった。 ライブコンサートは1980年代の後半まで行われた。1983年から1988年まで7月24日の誕生日に東京よみうりランドのEAST野外ステージで行われたバースデイライブなどが行われ、EASTライブは6回全てが映像ソフト化されている。 父親は大の阪神タイガースファンであったが、1985年3月25日に神奈川県民ホールで行われた横浜大洋ホエールズのファン感謝デーにゲストとして出演した。イベントでは自身の持ち歌2曲と、選手とのデュエットコーナーで「もしかしてPART2」を関根浩史と共に披露した。 この時期のチーフプロデューサーは芸映の香川洋三郎。
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