辛亥革命から護国戦争へとは? わかりやすく解説

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辛亥革命から護国戦争へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 15:01 UTC 版)

蔡鍔」の記事における「辛亥革命から護国戦争へ」の解説

1911年宣統3年7月蔡鍔雲南省新軍19鎮第37協協統に任命される同年10月10日武昌起義辛亥革命)が勃発すると、蔡鍔雲南省革命派である李根源唐継尭とともに、これに呼応して挙兵する計画立てる。10月30日蔡鍔らは昆明挙兵し雲貴総督李経羲捕虜として雲南省掌握した重九起義)。 11月1日、「大中雲南軍都督府」が設立されると、蔡鍔雲南都督推戴された。蔡鍔直ちに、雲南軍事政治改革取り組む。その清廉にして果断な政治姿勢により、省政の面目一新したため、省を混乱させることなく人心掌握成功した1913年民国2年5月蔡鍔梁啓超らが率い進歩党名誉理事となったが、まもなく辞任している。ただし、これ以後も、蔡鍔梁啓超との関係は極めて密接である。同年7月二次革命第二革命)が勃発すると、蔡鍔袁世凱支持した。しかし、袁世凱地方勢力の拡大恐れ子飼いでない地方都督北京呼び寄せ籠絡監視を行うようになった同年10月蔡鍔入京し、唐継尭後任雲南都督となった1915年民国4年11月袁世凱帝政反対した蔡鍔は、梁啓超らの援助北京脱出して雲南戻った12月25日唐継尭とともに雲南省独立宣言する袁世凱討伐のための護国軍が組織され蔡鍔護国第1軍総司令となった第2軍総司令李烈鈞第3軍総司令唐継尭)。こうして護国戦争始まったのである1916年民国5年)春、蔡鍔率い2万人の護国第1軍は、四川省瀘州納渓一帯で8万人北京政府軍を撃破した。さらに、広西省陸栄廷独立宣言したことにより、袁世凱による帝政取消し成功させた。袁世凱死去後6月蔡鍔は、四川督軍兼省長となった。しかし結核冒され日本行き福岡市治療を受けることになる。 同年11月8日蔡鍔九州帝国大学医科大学附属医院現在の九州大学病院)で、そのまま死去した享年35(満33歳)。1917年民国6年4月12日湖南省岳麓山国葬執り行われた。 遺作は『蔡松坡集』。

※この「辛亥革命から護国戦争へ」の解説は、「蔡鍔」の解説の一部です。
「辛亥革命から護国戦争へ」を含む「蔡鍔」の記事については、「蔡鍔」の概要を参照ください。

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