辛亥革命から中華人民共和国による併合までとは? わかりやすく解説

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辛亥革命から中華人民共和国による併合まで(1912~1949年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/19 04:24 UTC 版)

日本と東トルキスタンの関係」の記事における「辛亥革命から中華人民共和国による併合まで(1912~1949年)」の解説

1912年辛亥革命により清王朝倒れて中華民国成立したが、民主主義標榜する中華民国定義する「民」の中にはウイグル人含まれておらず、東トルキスタンでは、単に支配者巡撫(他省の総督に相当)から軍閥入れ替わっただけに過ぎなかった。1917年から1918年にかけて、後に新疆地区支配する漢人軍閥の長となる盛世才日本明治大学留学している。 1933年西部カシュガル根拠地として東トルキスタン共和国第一次)が独立果たしたが、翌1934年中華民国の国民政府から新疆省政府主席任命され盛世才東トルキスタン共和国征服して東トルキスタン居座って事実上独立国として振る舞う軍閥の長となった1944年9月11日盛世才権勢危惧した国民政府は、農林部長任命するという名目で盛を重慶市栄転させ、東トルキスタンから追いやった。この隙を衝いて、同年11月アリハーン・トラ主席とする勢力ソビエト連邦の支援を受け、北西部グルジャ根拠地として再度東トルキスタン共和国第二次独立達成したここまで動きは、日本国民政府勢力中国大陸から駆逐しようとする中国共産党や、それを後押しするソビエト連邦共産党意向沿ったものであった1945年8月日本ポツダム宣言受諾して降伏それまで中国大陸各地駐屯していた日本軍一斉に引き揚げた。 1945年9月東トルキスタン共和国アリハーン・トラ主席ウルムチ取り戻そうと軍を進めたところ、その翌月国民政府との和平路線入ったソ連邦ヨシフ・スターリンから停止命令受けたあろうことかトラ命令逆らって継戦し、それは1946年6月12日停戦派のアフメトジャン・カスィミ交渉取りまとめ国民政府和平するまで続いたトラスターリン命令逆らったことは致命的な失態となり、彼は6月18日KGBによって拉致されタシュケント軟禁そのまま30年後に同地生涯終えることになる。失脚したアリハーン・トラに代わって、アフメトジャン・カスィミ東トルキスタン主席の座を継いだが、1949年8月27日、カスィミ主席ほか10名の政権幹部搭乗した飛行機ソ連邦領内突如消息を絶った。この謎の飛行機事故により指導層一挙に失ったウイグル人勢力の隙を衝く形で、人民解放軍東トルキスタン侵攻、この地に未だ残存していた国民政府を含む反共党勢力を一掃し東トルキスタン中華人民共和国版図として併合した国民政府東トルキスタンだけでなく、重慶市南京市といった主要都市においてさえ人民解放軍進撃食い止めることができずに敗走続け遂に1949年12月台湾台北市臨時首都として大陸放棄する至った

※この「辛亥革命から中華人民共和国による併合まで(1912~1949年)」の解説は、「日本と東トルキスタンの関係」の解説の一部です。
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