辛亥革命から中華人民共和国による併合まで(1912~1949年)
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「日本と東トルキスタンの関係」の記事における「辛亥革命から中華人民共和国による併合まで(1912~1949年)」の解説
1912年、辛亥革命により清王朝が倒れて中華民国が成立したが、民主主義を標榜する中華民国の定義する「民」の中にはウイグル人が含まれておらず、東トルキスタンでは、単に支配者が巡撫(他省の総督に相当)から軍閥に入れ替わっただけに過ぎなかった。1917年から1918年にかけて、後に新疆地区を支配する漢人軍閥の長となる盛世才が日本の明治大学に留学している。 1933年、西部のカシュガルを根拠地として東トルキスタン共和国(第一次)が独立を果たしたが、翌1934年、中華民国の国民政府から新疆省政府主席に任命された盛世才が東トルキスタン共和国を征服して、東トルキスタンに居座って事実上の独立国として振る舞う軍閥の長となった。1944年9月11日、盛世才の権勢を危惧した国民政府は、農林部長に任命するという名目で盛を重慶市に栄転させ、東トルキスタンから追いやった。この隙を衝いて、同年11月、アリハーン・トラを主席とする勢力がソビエト連邦の支援を受け、北西部のグルジャを根拠地として再度の東トルキスタン共和国(第二次)独立を達成した。ここまでの動きは、日本と国民政府の勢力を中国大陸から駆逐しようとする中国共産党や、それを後押しするソビエト連邦共産党の意向に沿ったものであった。1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾して降伏、それまで中国大陸各地に駐屯していた日本軍は一斉に引き揚げた。 1945年9月、東トルキスタン共和国のアリハーン・トラ主席がウルムチを取り戻そうと軍を進めたところ、その翌月、国民政府との和平路線に入ったソ連邦のヨシフ・スターリンから停止命令を受けた。あろうことか、トラは命令に逆らって継戦し、それは1946年6月12日に停戦派のアフメトジャン・カスィミが交渉を取りまとめて国民政府と和平するまで続いた。トラがスターリンの命令に逆らったことは致命的な失態となり、彼は6月18日にKGBによって拉致されてタシュケントで軟禁、そのまま30年後に同地で生涯を終えることになる。失脚したアリハーン・トラに代わって、アフメトジャン・カスィミが東トルキスタン主席の座を継いだが、1949年8月27日、カスィミ主席ほか10名の政権幹部が搭乗した飛行機がソ連邦領内で突如、消息を絶った。この謎の飛行機事故により指導層を一挙に失ったウイグル人勢力の隙を衝く形で、人民解放軍が東トルキスタンに侵攻、この地に未だ残存していた国民政府を含む反共産党勢力を一掃し、東トルキスタンを中華人民共和国の版図として併合した。 国民政府は東トルキスタンだけでなく、重慶市や南京市といった主要都市においてさえ人民解放軍の進撃を食い止めることができずに敗走を続け、遂に1949年12月、台湾の台北市を臨時首都として大陸を放棄するに至った。
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