ソビエト連邦の支援
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「モザンビーク独立戦争」の記事における「ソビエト連邦の支援」の解説
「冷戦#冷戦の展開」も参照 冷戦の期間中、特に1950年代後半、東側陣営のソビエト連邦および中華人民共和国は西側陣営である西欧諸国が保持するアフリカの植民地について本国から分裂させることで不安定化を図る戦略を採用した。ニキータ・フルシチョフソ連共産党第一書記によれば、「人類社会の未開発の三分の一」は西側陣営を弱体化すると考えられていた。ソ連にとって、この時点のアフリカには西側諸国と植民地資産との関係を裂き、将来のアフリカにおける共産主義に好意的な国際関係を構築する意味が見出されていた。FRELIMOの結成以前のモザンビークの民族主義運動からみたソビエト連邦は、混乱を演出する一要素に過ぎなかった。この時期には複数の独立運動が展開されており、どのグループが主導権を握るのか定かではなかった。 モザンビークの複数の互いに対立する民族主義者グループが、この時期の他のアフリカ諸国と同じように、ソビエト連邦からそれぞれ武器の供与と訓練の便宜を受けていた。FRELIMOの結成以降はソビエト連邦および東側諸国がFRELIMOの後ろ盾となり、その支援がFRELIMOに一本化されることになった。 エドゥアルド・モンドラーネの後継者であり、後にモザンビーク人民共和国大統領になったサモラ・マシェルはソビエト連邦と中華人民共和国の支援についてこう語っている。「(ソ連・中国からの支援は)我々を本当に助けてくれる唯一のものである。彼らは武装闘争の経験があり、モザンビークが行おうとすることに役立つことを教えてくれる」 ゲリラ部隊は反政府活動や政治戦略に関する指導を受けることと並行して1972年にはソビエト連邦・ドイツ民主共和国(東ドイツ)・キューバからの1,600人からなる軍事顧問団とともに122mmロケット砲の軍事援助を受けた。 ソ連は1975年のFRELIMOによる政権成立後も新政府に対し、反革命に対抗するためとして軍事支援を続行した。1981年の時点まで、230人のソ連軍事顧問団と800人のキューバ軍事顧問団がモザンビークに残留している。キューバにおいては、モザンビークに対する関係はキューバ革命によって醸成された反帝国主義イデオロギーをモザンビークに輸出することで数少ない同盟勢力を維持しようという企図の下に維持されていた。 キューバのアフリカにおける軍事活動はコンゴ動乱におけるチェ・ゲバラの反チョンベ勢力に対する支援活動に始まるが、キューバはその後複数の左翼政権を持つアフリカ人国家による解放運動を支援した。例としてアンゴラ・エチオピア・ギニアビサウ・コンゴ共和国が挙げられる。
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ソビエト連邦の支援
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「エリトリア独立戦争」の記事における「ソビエト連邦の支援」の解説
1977年までに、EPLFは同時にソマリア国境付近で侵攻しエチオピアの軍事物資を接収することでエチオピア人をエリトリアから駆逐する計画がなされていた。しかしデルグはソ連からソ連製兵器の大規模な空輸によってソマリアからの侵入を撃退することに成功した。ソ連からの軍事援助物資を受け取った後、ソマリア・オガデン方面の作戦に使用する労働力及び装備を転用して、エチオピア軍は主導権を取り返し独立勢力を都市から離れた奥地へ追いやることに成功した。この時期の主な軍事衝突としてマッサワの戦い(en:Battle of Massawa (1977))、バレンツ包囲(Siege of Barentu)が挙げられる。1978年から1986年まで、デルグは独立派勢力に対して8回の大きな攻勢をかけたが、独立派のゲリラ組織を壊滅させるには至らなかった。1988年にEPLFがエリトリア州におけるエチオピア陸軍の本拠地であるアファベトをアファベトの戦い(en:Battle of Afabet)で奪取すると、エチオピア陸軍の司令部はエリトリア北東部に撤退し、エリトリア西部の盆地から守備隊の引き上げを余儀なくされた。この後EPLFはエリトリア第二の規模を持つケレン付近に根拠地を定めた。その間、EPLF以外の独立勢力もエチオピア軍の占領地域を奪回していった。この紛争中、エチオピア軍は化学兵器を使用していた。また、ナパーム弾が通常の爆弾と同様に使用された。 1980年代末、ソ連は軍事援助を継続しないことをメンギスツ政権に通告した。ソ連による援助の停止で、エチオピア軍の士気は急速に下がり、EPLFは他のエチオピア国内の反政府勢力と協力して戦線を前進させた。1990年にはエチオピア軍は海軍基地のあるマッサワを失った(第2次マッサワの戦い)。1989年にティグレ人民解放戦線(TPLF)を中心にオロモ人民民主機構(OPDO)、アムハラ民族民主運動(ANDM)、南エチオピア人民民主戦線(SEPDF)が合流して結成されたエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)が1991年5月、エチオピアの首都アディスアベバを陥落させるに至り戦況は決定的となった。EPLFは元来TPLFと協力関係にあったため、EPRDFと共同して作戦を敢行した。
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