民族主義運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 09:05 UTC 版)
1959年(昭和34年)5月10日、16歳で愛国党総裁赤尾敏の演説を聞いて感銘を受け、赤尾敏率いる大日本愛国党に入党し、愛国党の青年本部員となった。赤尾の「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」という言葉に感動し、赤尾が次の場所に移動しようとした時、トラックに飛び乗り、「私も連れて行って欲しい」と頼み込んだ。しかし、この時には赤尾に静かに拒絶された。その後、玉川学園高等部を中退。山梨県北巨摩郡小淵沢町(現・北杜市)で嶽南義塾をしていた杉本広義のもとでしばらく厄介になり、杉本の紹介で大東文化大学の聴講生となった。 赤尾の演説に対して野次を飛ばす者がいると、野次の者に殴りかかっていくこと等を継続した。左派の集会解散と右派人士保護を率先して行った。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともあった。愛国党の入党後半年で、10回も検挙された。1959年(昭和34年)12月に保護観察4年の処分を受けた。 1960年(昭和35年)5月29日、同志党員2人らとともに愛国党を脱党した。 左翼指導者を倒せば左翼勢力をすぐ阻止できるとは考えないが、彼らが現在までやってきた罪悪は許すことはできないし、1人を倒すことで、今後左翼指導者の行動が制限され、扇動者の甘言に付和雷同している一般の国民が、1人でも多く覚醒してくれればよいと思った。できれば信頼できる同志と決行したいと考えたが、自分の決意を打ち明けられる人はいず、赤尾先生に言えば阻止されるのは明らかであり、私がやれば党に迷惑がかかる。私は脱党して武器を手に入れ決行しようと思いました。 — 山口の供述 1960年(昭和35年)6月17日、右翼青年たちが社会党顧問である河上丈太郎を襲撃する事件が起こった時、「自分を犠牲にして売国奴河上を刺したことは、本当に国を思っての純粋な気持ちでやったのだと思い、敬服した。私がやる時には殺害するという徹底した方法でやらなくてはならぬ」と評価した。 7月1日、同志たちと一緒に全アジア反共連盟東京都支会の結成に参加した。 10月4日、自宅でアコーディオンを探していたところ、偶然脇差を見つけた。鍔はなく、白木の鞘に収められているもので、「この脇差で殺そうと決心した」という。明治神宮を参拝し、すぐに小林武日教組委員長、野坂参三日本共産党議長宅にそれぞれ電話。「大学の学生委員だが教えてもらいたいことがある」と面会を申し込む計画だったが、小林委員長は転居、野坂議長は旅行中だったので、共にすぐに実行できず失敗した。 10月12日、自民・社会(現在の社会民主党)・民社の三党の党首立会演説会において、当時日本社会党の委員長だった浅沼稲次郎を殺害する計画を立て、刀袋などを準備し東京都千代田区の日比谷公会堂に向かって歩いていった。
※この「民族主義運動」の解説は、「山口二矢」の解説の一部です。
「民族主義運動」を含む「山口二矢」の記事については、「山口二矢」の概要を参照ください。
民族主義運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 14:43 UTC 版)
1934年、リトアニア人民族主義連合に入党する。1932年から1937年までカウナス国営無線局(リトアニア語版)で勤務。1936年から1937年まで週刊誌『ムースー・クラシュタス』 (Mūsų kraštas) の出版に協力。1937年から1939年まで新聞『リエトゥヴォス・アイダス』 (Lietuvos aidas) の通信員(在パリ、在西ヨーロッパ)。1939年から1940年まで再び国立カウナス無線局で勤務。1939年には新聞『ヴァイラス』 (Vairas) の編集に携わる。当時『ヴァイラス』はスメトナ大統領の穏健政策に反発する急進派が多く関わっていた。1939年から1940年まで『リエトゥヴォス・アイダス』日刊版の国際面の編集者。 1940年6月15日、ソ連赤軍がリトアニアを占領すると、農民人民派の日刊紙『リエトゥヴォス・ジニョス』 (Lietuvos žinios) 編集者ヨナス・シムクス(リトアニア語版)が『リエトゥヴォス・アイダス』の編集長に任命された。『第三戦線』時代からシムクスと知り合いだったライラは彼のもとを訪れたが、シムクスはライラにすぐに海外に亡命するよう助言した。これを受けてライラは6月21日にドイツに出国。
※この「民族主義運動」の解説は、「ブロニース・ライラ」の解説の一部です。
「民族主義運動」を含む「ブロニース・ライラ」の記事については、「ブロニース・ライラ」の概要を参照ください。
民族主義運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 07:27 UTC 版)
「イギリス統治下のビルマ」の記事における「民族主義運動」の解説
世紀の変わり目までに、植民地当局によって宗教団体が許可されたため、キリスト教青年会(YMCA)をモデルにした仏教青年会(英語版)(YMBA)を拠り所として民族主義運動は形になり始めた。これは後にビルマ諸団体総評議会(英語版)(GCBA)に取って代わられた。GCBAはビルマ本土各地の村々に出現したWunthanu athin(民族諸団体)と関連していた 。 1900年から1911年の間に、アイルランド出身の仏教徒のダンマローカ(英語版)は、キリスト教とイギリスの支配権に公然と異を唱えたため、騒乱罪によって2回の裁判にかけられた。 20世紀初頭、教育を受けられる階級の中から新世代のビルマの指導者が登場した。その中には、法律を学ぶためのロンドン留学を許された者たちもいた。彼らは、ビルマの状況は改革によって改善される可能性があるという信念とともに帰国した。1920年代初頭の進歩的な憲法改正により、限定的な権限を持つ議会、大学、そして英領インドの枠内のビルマ自治権が強化された。公機関でのビルマ人の代表を増やすための努力もなされた。一部の人々は、変化の速度が遅く、改革の範囲も不十分だと感じ始めた。 1920年、新しい大学法に抗議する学生のストライキが勃発した。この法律が永続的な植民地支配とエリート層にのみ利益をもたらすものだという確信が学生たちにはあった。植民地の教育制度に抗議して、全国に「国民学校」が出現した。後にこのストライキの日は「国民の祝日(ビルマ語版)」となった 。 1920年代後半には、Wunthanu athinが主導してさらなるストライキと反税抗議運動が起きた。 政治活動家の中で著名なのは、アラカンのウー・オッタマやウー・セインダなどの仏僧(hpongyi)であり、彼らはのちにはイギリスに対する武装蜂起に至った。また、独立後はビルマ政府とも戦うことになる。ウー・ウィサラはこの運動での最初の殉教者であり、獄中での長期のハンガーストライキの後に亡くなった。 1930年12月、サヤー・サンが指導したタラワディでの地方税への抗議運動は、最初は地域、次に政府に対する全国的な反乱へと急速に拡大した。2年間続いたサヤー・サンの乱は、神鳥ガルダのビルマ名であるガロンを冠した結社が主導したことからガロンの乱(Galon Rebellion)とも呼ばれる。ガルダとはナーガの敵であり、つまりイギリスをナーガに見立てたものだった。鎮圧のために、イギリスは数千の兵を投入し、さらに政治改革を約束する必要があった。サヤー・サンは最終的に処刑されたが、その裁判には、後の民族運動の旗手となるバー・モウやウー・ソオらが弁護人として参加しており、彼らの名を上げる契機となった。 1930年6月、ド・バマー・アスイーアヨウン(英語版)(「われらビルマ人協会」の意)が設立された。メンバーは互いに「タキン(主人)」と呼び合った。これはもともとはインドの「サーヒブ」と同じように植民地支配者(ヨーロッパ人)を意味する言葉だったが、「彼ら自身(ビルマ人)がこの国の真の主人である」との主張が込められていた。1936年の二度目の大学生のストライキの原因は、大学の雑誌に掲載された記事の筆者名を公表せよとの要求を拒んで、大学幹部職員の一人を痛烈に批判したことで、ラングーン大学(英語版)学生自治会のリーダーであるアウンサンとウー・ヌが放校処分にされたことがきっかけだった。それはマンダレーまで拡大し、全ビルマ学生連盟(英語版)の結成につながった。その後、アウンサンとウー・ヌはタキン運動に加わり、学生から国政へと転身した。
※この「民族主義運動」の解説は、「イギリス統治下のビルマ」の解説の一部です。
「民族主義運動」を含む「イギリス統治下のビルマ」の記事については、「イギリス統治下のビルマ」の概要を参照ください。
- 民族主義運動のページへのリンク