民族主義の黎明
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「チャイコフスキーとロシア5人組」の記事における「民族主義の黎明」の解説
最初の「真にロシア的な」作曲家となったミハイル・グリンカを例外として、チャイコフスキーが誕生する1840年以前のロシア固有の音楽といえば民謡と教会音楽だけであった。ロシア正教会に禁止されたことが原因で世俗音楽はその発展を阻害されていたのである。1830年代に入るとロシアのインテリゲンチャが議論を戦わせたのは、芸術家がヨーロッパ文化からの借用を行った場合に自らのロシアらしさを否定すべきなのか、もしくはロシアの文化を刷新、発展させるべく重大な歩みを進めるべきなのかという問題であった。2つの陣営がこの疑問への解を探し求めていた。スラヴ主義者らはピョートル大帝以前のロシアの歴史を理想化し、国はビュザンティオンに根付き、ロシア正教会によって広められた独自の文化を有しなければならないと主張した。一方で西欧同化主義者らは、ピョートル大帝が国を改革して西欧と同等に引き上げようとした愛国者であったとして賛美した。過去を振り返る代わりに前を見据えた彼らは、若く未熟なロシアは西欧からの借用により最も先進的な西欧文明社会になることができる、そして短所を長所に転換できる可能性を有していると見ていたのである。 1836年、グリンカのオペラ『皇帝に捧げた命』がサンクトペテルブルクにおいて初演される。これはインテリゲンチャが長く待ち望んだ出来事だった。このオペラがロシアの作曲家により生み出されたはじめての大規模作品であり、言語にロシア語を用いているとともに愛国的であることを特色としていたからである。その筋書きはニコライ1世が普及させた「官製国民性」の教義にうまく合致しており、それにより皇帝の承認が確実なものとなった。構成と様式の点において『皇帝に捧げた命』はイタリアオペラそのものであったが、主題の構造は洗練されておりオーケストレーションには大胆さも見られた。また、本作はロシア語演目として定着した初の悲劇であったが、主人公のイヴァン・スサーニン(英語版)が最後に命を落とすことでオペラ全体に通底する愛国的感情に実直さが与えられ、際立たせられるのである。音楽が対話によって妨げられず全編を通して奏され続けるという点においても、このオペラはロシア初となる作品であった。加えて同時代の人々を驚かせたのが、民謡とロシアの国内特有の語法が音楽に織り込まれており、それらが戯曲として結実していたことである。グリンカは民謡を使用した理由について、国家主義を明確に狙ったというよりは、オペラによく知られた登場人物が登場することを反映したものであると説明している。そうした要素はオペラ内の主要な部分には用いられておらず、ロシア民謡「御者の歌」を使用したことに対しても軽蔑的な意見があったにもかかわらず、『皇帝に捧げた命』は恒久的な演目となるに足る人気を獲得することになった。ロシア国内でそれを成し得た最初のロシア語によるオペラとなったのである。 皮肉にも、同じシーズンにジョアキーノ・ロッシーニの『セミラーミデ』が成功を収めたため、『皇帝に捧げた命』を常に『セミラーミデ』とほぼ同じキャストによりそのまま上演することが可能であった。『皇帝に捧げた命』の成功にもかかわらず、『セミラーミデ』への聴衆の熱狂はイタリアオペラの絶大なる需要を浮き彫りにした。これはロシアオペラにとっては概して悪しき状況といえ、グリンカが1842年に次なるオペラ『ルスランとリュドミラ』を発表した際にはその影響が如実に出た。『ルスランとリュドミラ』の失敗を機にグリンカはロシアから去っていき、国外で生涯を終えることになるのである。
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