民族主義政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:43 UTC 版)
「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」の記事における「民族主義政策」の解説
これ以降、独裁的な指導力を握ったムスタファ・ケマルは、大胆な民族主義政策を断行した。1928年、イスラム教を国教と定める条文を憲法から削除し、トルコ語の表記についてもトルコ語と相性の良くないアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行。さらにはトルコ語におけるアラビア語などに由来する単語を、古語から由来したものに置き換え(「トルコ語#歴史と言語純化運動」参照)、政治、社会、文化の改革を押し進めた。 ローザンヌ条約締結後、ギリシャとトルコの住民交換を行なって国内のトルコ人比率を高め、さらに各地にあるアルメニア語、クルド語、ギリシャ語、ブルガリア語などに由来する地名をトルコ風に改めるなどした。 1936年に三日月型のトルコの国旗とトルコ国歌を制定した。 その他にはかつて学校で教えられていたペルシャ語やアラビア語のコースを廃止して、トルコ語を学習もしくは専攻するコースを設置した。 文化面では、1931年、私財を投じてトルコ歴史協会(英語版)、その後、トルコ言語協会をアンカラに設立した。
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