アンカラ【Ankara】
アンカラ【アンカラ】(観賞樹)
※登録写真はありません | 登録番号 | 第10591号 |
登録年月日 | 2002年 9月 4日 | |
農林水産植物の種類 | ハイビスカス | |
登録品種の名称及びその読み | アンカラ よみ:アンカラ | |
品種登録の有効期限 | 25 年 | |
育成者権の消滅日 | ||
品種登録者の名称 | コーポレイティブ ベレニギング ワークグループ ハイビスカス U.A. | |
品種登録者の住所 | オランダ王国 1435NL リージェンハウト デン アデルズベット 5 | |
登録品種の育成をした者の氏名 | マリヌス ヤコブ ベヴェランデール | |
登録品種の植物体の特性の概要 | ||
この品種は、育成者の収集した野生種どうしを交配して育成されたものであり、花は基部が濃赤茶色、中部が鮮橙色、先端部が明橙色のロート型の一重咲きで、小輪の鉢物向きの品種である。樹皮の亀裂の形は線状、色は茶、枝の粗密はやや粗である。成葉全体の形は卵形、葉身先端の形は鋭形、基部の形は鈍形、縁の形は二重鋸歯、葉身の長さは短、幅は狭、新葉表面の色は暗黄緑(JHS カラーチャート3508)、成葉表面の色は暗緑(同3708)、斑の有無は無、新葉表面及び成葉表面の光沢は弱、毛は有、葉脈の形は中間型、葉柄の太さ及び長さは中、色は赤褐、托葉の形は線状披針形、長さは中である。花冠の向きは横向き、開き方はロート型、タイプは一重咲き、花弁の重なりは重なる、花冠の長径は小である。つぼみの色は黄(同2513)、単色・複色の別は三色、複色のタイプはバンド、バンド1の色は濃赤茶(同0708)、2の色は鮮橙(同1605)、3の色は明橙(同1604)、脈の明瞭さは明瞭、バンド1の幅は中、2の幅は広、3の幅は狭、花弁全体の形は靴へら型、ねじれは無、長さは短、幅は中、数は少、光沢は無である。ずい柱の弁化の有無及び曲がりは無、太さ及び長さは中、色のタイプは二色、基部の色は明橙黄(同2204)の地色に鮮橙赤(同0706)の条、先端の色は明橙黄(同2204)、先端裂片の数は5裂、花柱枝の色は黄、毛は有、柱頭の色はオレンジ、花糸の長さは中、色は黄、やくの色はオレンジである。花柄上部の太さ及び長さは中、色は穏黄緑(同3513)、花柄下部の太さ及び長さは中、色は濃黄緑(同3507)である。副がく裂片の形は狭披針形、副がくの開放の方向はやや接着、色は緑、がく筒全体の形は鐘形、がく筒の基部から先端までの長さは中、色は淡緑、がく裂片の形態は鋭形、切れ込みは中裂、毛は有、花の香りは無である。「バリ」と比較して、成葉の葉縁の形が二重鋸葉であること、単色・複色の別が三色であること、花弁全体の形が靴へら型であること等で区別性が認められる。 | ||
登録品種の育成の経過の概要 | ||
この品種は、1992年に育成者の温室(オランダ王国)において、育成者の収集した野生種どうしを交配し、その実生の中から選抜、以後、増殖を行いながら特性の調査を継続し、1997年にその特性が安定していることを確認して育成を完了したものである。 |
アンカラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/30 19:00 UTC 版)
アンカラ | |
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アンカラ県/アンカラ大都市 Ankara ili/Ankara Büyükşehir | |
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各県図におけるアンカラ県の位置 | |
座標:北緯39度55分48秒 東経32度51分00秒 / 北緯39.93000度 東経32.85000度座標: 北緯39度55分48秒 東経32度51分00秒 / 北緯39.93000度 東経32.85000度 | |
国 | トルコ |
地方 | 中央アナトリア地方 |
県・大都市 | アンカラ県 |
政府 | |
• 種別 | 県・大都市 |
• 県知事 | ヴァシップ・サヒン |
• 大都市市長 | マンスール・ヤヴァシュ |
面積 | |
• 合計 | 24,521 km2 |
標高 | 938 m |
人口 (2020年) | |
• 合計 | 5,663,322[1]人 |
• 密度 | 230人/km2 |
等時帯 | UTC+3 (TRT) |
郵便番号 | 06xxx |
市外局番 | +90 312 |
ナンバープレート | 06 |
ウェブサイト | www www |
アンカラ(Ankara、[ˈaŋ.ka.ɾa] ( 音声ファイル))は、トルコ共和国の首都。中央アナトリア地方に位置する大都市自治体であり、2012年の行政区画改編によりアンカラ県とは同一の範囲となっている[2]。
人口約500万人を抱え、イスタンブールに次ぐ同国第2の都市。中東・西アジア有数の世界都市である。
概要
都市の主要部分はウルス (Ulus) と呼ばれるオスマン帝国時代以前からの歴史的旧市街と、1920年代以降にトルコ共和国政府によってその南にイェニシェヒル (Yenişehir) という名で計画的に建設された新市街、およびその郊外地区からなり、政府の施設はイェニシェヒルに集中している。
市街は政府の計画に沿って建設が進められたが、郊外地区は第二次世界大戦後の経済発展の都市集中に伴ってアンカラに流入してきた人々が建てたゲジェコンドゥと呼ばれる不法占拠住宅によって無秩序かつ急速に拡大した部分も大きい。
1980年代以降は地下鉄など交通網の整備が進められた郊外に大規模な団地、ニュータウンが建設され、都市の膨張は進展しつづけている。
歴史
古代ヒッタイト時代から人類が居住していた跡が残っているが、プリュギア時代に規模が拡大したアンキューラ (Ancyra) と呼ばれた都市が、現在のアンカラ旧市街の始まりである。
アンキューラは紀元前189年、ローマ帝国に占領されてアンゴラ (Angora) の名で知られるようになる。ローマ人は、アンゴラをローマ都市として整備するため、大劇場、大浴場、アウグストゥスを祀る神殿、ユリアヌスの来訪を記念する円柱などを建てた。それらは、アンカラとなった現在も遺跡として残っている。東ローマ帝国のもとでキリスト教が広まり、現在も残る城塞が築かれた。またテマ(軍管区)・オプティマトンの首府となるなど、アナトリア中部における帝国の地方行政・軍事の拠点都市となった。
このため度々イスラーム勢力の侵攻を受け、806年にはアッバース朝のカリフ、ハールーン・アッ=ラシードが自ら軍を率いてアンゴラを包囲するということも起こっている。アンゴラは、1073年にムスリム(イスラム教徒)のセルジューク朝によって占領され、トルコ人によってアンカラと呼ばれるようになった。
1101年には1101年の十字軍としてやってきたトゥールーズ伯レーモン4世がアンカラを占領している。セルジューク朝がレーモン4世の軍を撃退した後、アンカラはセルジューク系のアミールであるダーニシュマンド家の政権やルーム・セルジューク朝、さらにはモンゴル政権であるイルハン朝の支配を受けた。
アンカラは1356年にオスマン朝のオルハンによって占領され(ムラト1世の時代という説もある)、以降はオスマン帝国領となるが、1402年にはこの町の近郊でオスマン朝のバヤズィト1世が中央アジアから来攻したティムールに敗れ、オスマン朝は10年間に及ぶ分裂期(空位時代)を迎えた(アンカラの戦い)。
オスマン帝国時代のアンカラはアナドル州に属するアンカラ県の県都であったが、17世紀初頭にアナトリアで発生した大規模反乱であるジェラーリーの反乱の際には反乱側に落ち、その中心地となった。また、オスマン帝国時代には特産であるアンゴラヤギの毛を用いたモヘヤ生産の発展もみられたが、19世紀に入るとイギリスがアンゴラヤギの飼育に成功したこともあり、市場での独占性が薄れ毛織物工業は衰退に向かった。
1864年には行政区画の改変によりアンカラ州の州都となり、1892年にはアナトリア鉄道(CFOA、トランス・アナトリア鉄道)が開通してイスタンブールやエスキシェヒルと結ばれたが、全体としてはアンカラは地方の小都市であり、20世紀初頭の1919年においても人口は2万5000人ほどであった。
第一次世界大戦終結後、戦勝国によりオスマン帝国の分割が進められ、さらにギリシャによってアナトリア西南部が占領されると、アンカラにも英仏軍が進駐してきたが、1920年にこれに反対して決起したトルコ人たちの抵抗政権がアンカラに樹立され、ムスタファ・ケマルがその指導者となってギリシャ軍をアナトリアから撤退させることに成功した。
さらにアンカラ政府は1922年、イスタンブールにあったオスマン帝国のスルタンを廃してトルコ国家の単独政府を宣言し、1923年に共和制を宣言してアンカラを首都とするトルコ共和国が樹立された。
1923年にアンカラを首都と定める法律が大国民議会で可決され、首都となったアンカラは官僚の移住などにより急速に人口が増大した。これにより旧市街ウルスが手狭になったため、1924年には新市街(イェニシェヒル)の建設計画が定められた。
1928年にはアンカラ市全体を対象とする都市計画(マスタープラン)の国際コンペが開かれ、ドイツ人ヘルマン・ヤンセンが主席を獲得した。
1932年から始まった都市整備はこのヤンセンの案に基づくもので、新市街の建設や大火で焼けたウルスの再開発などが行われた。さらに経済発展に伴う都市への人口集中により人口は膨張の一途を辿った結果、旧都イスタンブールに次ぐトルコ第2の都市に成長した。
1984年に都心部は大都市自治体として指定されていた[3]。2004年に指定範囲は知事室周囲半径50kmまでに拡大した[4]。2012年の行政区画改編により指定範囲はアンカラ県全域に拡大した[2]。
気候
大陸性気候で降雨量は少ないが、春と秋に比較的まとまった雨が降る。冬季は-10度以下まで下がることもある。
アンカラ (1970–2011)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 16.6 (61.9) | 19.9 (67.8) | 26.4 (79.5) | 30.6 (87.1) | 33.0 (91.4) | 37.0 (98.6) | 40.8 (105.4) | 40.4 (104.7) | 36.0 (96.8) | 32.2 (90) | 24.4 (75.9) | 19.8 (67.6) | 40.8 (105.4) |
平均最高気温 °C (°F) | 4.3 (39.7) | 6.7 (44.1) | 11.9 (53.4) | 17.1 (62.8) | 22.2 (72) | 26.6 (79.9) | 30.3 (86.5) | 30.2 (86.4) | 26.0 (78.8) | 19.7 (67.5) | 12.4 (54.3) | 6.2 (43.2) | 17.8 (64) |
平均最低気温 °C (°F) | −3.0 (26.6) | −2.0 (28.4) | 1.1 (34) | 5.7 (42.3) | 9.7 (49.5) | 13.1 (55.6) | 16.1 (61) | 16.1 (61) | 12.0 (53.6) | 7.4 (45.3) | 2.2 (36) | −1.0 (30.2) | 6.5 (43.7) |
最低気温記録 °C (°F) | −21.2 (−6.2) | −21.5 (−6.7) | −19.2 (−2.6) | −6.7 (19.9) | −1.6 (29.1) | 5.0 (41) | 6.8 (44.2) | 7.2 (45) | 2.5 (36.5) | −3.4 (25.9) | −8.8 (16.2) | −17.2 (1) | −21.5 (−6.7) |
降水量 mm (inch) | 39.2 (1.543) | 33.4 (1.315) | 36.7 (1.445) | 50.0 (1.969) | 50.3 (1.98) | 35.3 (1.39) | 15.5 (0.61) | 12.0 (0.472) | 17.5 (0.689) | 33.2 (1.307) | 35.4 (1.394) | 42.5 (1.673) | 401 (15.787) |
平均降水日数 | 11.1 | 10.4 | 10.6 | 12.3 | 12.5 | 8.9 | 3.9 | 3.0 | 3.8 | 7.5 | 8.8 | 11.0 | 103.8 |
平均月間日照時間 | 74.4 | 98.9 | 164.3 | 189.0 | 260.4 | 309.0 | 350.3 | 325.5 | 276.0 | 198.4 | 126.0 | 68.2 | 2,440.4 |
出典:[5] |
文化
- アタテュルク廟(アヌトゥカビル)
- アナトリア文明博物館
教育
交通
- エセンボーア国際空港が市の北東28kmの位置にある。
- トルコ国鉄のアンカラ駅は、国内の重要駅で、トルコ高速鉄道によるイスタンブール-アンカラまでの第一次線が2009年に開業した。
- 近郊の都市へは、アンカラ・インターシティ・バスターミナル(Ankara Şehirlerarası Terminal İşletmesi 通称「アシュティ」A.Ş.T.İ.)から多くのバスが発着する。
- 市内交通はアンカラ地下鉄のLRTタイプのアクサライ線と地下鉄路線の2路線あり、さらに3路線が建設中となっている。
スポーツ
トルコ・シュペルリガに所属するサッカークラブが市内に4つある。 MKEアンカラギュジュはアンカラ最古のクラブである。ゲンチレルビルリイが好敵手という構図になっている。これらはみなアンカラ5月19日スタジアムAnkara 19 Mayıs Stadyumuをホームとしている。競技場名は、1919年にムスタファ・ケマル・アタテュルクがサムスンに上陸した日付にちなんでいる。
アンカラ出身の人物
映画・TV分野
スポーツ分野
- クタイ・エルヨルダシュ - フィギュアスケート選手
- メフメト・オザル - レスリング選手
- セダ・トカトルオール - バレーボール選手
- ハサン・カブゼ - サッカー選手
- トゥーバ・カラデミル - フィギュアスケート選手
音楽分野
ビジネス分野
- ラフミ・コチ - 実業家
姉妹都市
ギャラリー
- アンカラの中心部を望む
- アンカラ西部のギュゼルケント地区
- アンカラ都市圏の夜間の衛星写真
関連項目
出典
- ^ “Turkey: Major cities and provinces”. citypopulation.de. 24 February 2015時点のオリジナルよりアーカイブ。13 December 2020閲覧。
- ^ a b “Başbakanlık Mevzuatı Geliştirme ve Yayın Genel Müdürlüğü”. www.resmigazete.gov.tr (12/11/2012). 2022年2月3日閲覧。
- ^ “TÜRK BELEDİYECİLİĞİNİN GELİŞİM SÜRECİ”. www.mevzuatdergisi.com. 2022年2月3日閲覧。
- ^ “BÜYÜKŞEHİR BELEDİYESİ KANUNU” (10/7/2004). 2022年2月4日閲覧。
- ^ “Resmi İstatistikler (İl ve İlçelerimize Ait İstatistiki Veriler)” (Turkish). 2012年6月2日閲覧。
- ^ “Iran, Turkey to expand cooperation by declaring Tehran, Ankara sister cities: Tehran Mayor”. IRNA. (2013年12月18日) 2014年6月17日閲覧。
外部リンク
- 公式
- 観光
- トルコ政府観光局 - アンカラと中央アナトリア地方
- ウィキボヤージュには、アンカラに関する旅行情報があります。
- その他
- アンカラに関連する地理データ - オープンストリートマップ
アンカラ(トルコ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 16:21 UTC 版)
トルコ人女性へ、磯崎夫人からの手紙をあずかっていた。使者役をし、満足し、アンカラを去る。
※この「アンカラ(トルコ)」の解説は、「深夜特急」の解説の一部です。
「アンカラ(トルコ)」を含む「深夜特急」の記事については、「深夜特急」の概要を参照ください。
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