アンカラの戦い以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 09:30 UTC 版)
バヤズィト1世の子として生まれる。 父バヤズィト1世の存命中には、アマスィヤの知事を務めた。1402年のアンカラの戦いで、父のバヤズィト1世がティムールに敗れて捕虜となる。この時メフメトもバヤズィトに従軍していたが、トルコ人兵たちに助けられて無事に戦場を脱出することができた。 アンカラの戦いの後、メフメトは自身の任地であるアマスィアを拠点とした。ティムールの軍はアナトリアに長くは留まらず、エーゲ海沿岸部に到達した後に撤退したが、かつてオスマン帝国に併合されたベイリク(君侯国)がティムールによって再興され、アナトリアのオスマン帝国の領土は祖父ムラト1世以前の規模に縮小していた。また、メフメトの3人の兄弟が、以下の地に拠ってそれぞれ帝位を主張していた。 スレイマン:エディルネを本拠にバルカン半島を支配 イーサー:ブルサ ムーサー:キュタヒヤ 足かけ11年にわたる、オスマン帝室の兄弟間で君主の地位を巡る闘争が起きたこの時代は、「空位時代」(もしくは「危機時代」)と呼ばれる。
※この「アンカラの戦い以前」の解説は、「メフメト1世」の解説の一部です。
「アンカラの戦い以前」を含む「メフメト1世」の記事については、「メフメト1世」の概要を参照ください。
- アンカラの戦い以前のページへのリンク